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小長井 井崎海岸の蝙蝠岩と鯨堂

古かもん見てさる記
02 /24 2023

 小長井の海岸と言えば、近頃はフルーツバス停。

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 若い人たちが、ひっきりなしにクルマを停めて写真を撮りまくっている。よく知らないが、SMLとやらに投稿するらしい。

 地元のばあちゃんが、バスと間違えて若者の軽ワゴン車に乗り込み、遠くへ連れていかれないか心配だ。



 そんな賑やかさとは無縁の、井崎地区の淋しい海岸。

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 この砂浜には、黒くて角ばった大小の岩石がたくさん並んでいる。

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 大きいものは2m以上。潮が引くと歩いてそばに行けるが、満ちると水の中。


 石は大抵が地面に埋まっていて、その上に砂が堆積しているらしい。多良岳の溶岩らしいのだが、詳しいことは知識不足で判らない。

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 独特な雰囲気のある景観なので、自転車でこっち方面へ来た時は、寄り道して眺めたりしている。

 何か伝承とかがないのかと思い、諫早市のHPや郷土史の他、ネット検索もしてみたが、出てくるのはフルーツバス停の画像ばかり。なかなか手がかりが見つからなかった。 



 ところが最近、諫早市立図書館が所蔵する「江戸時代の諫早領の古地図」が多数公開され、状況が変わった。

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 古地図のこの場所には、「蝙蝠(こうもり)岩」と書かれていた。


 いや、「こうもん岩」ではないし「もっこり岩」でもない。

 

 蝙蝠岩が地名なのかは微妙だが、昔の人が、黒くて尖ったたくさんの岩がコウモリの群れのようなので、そう呼んでいたのだろう。


 今は見向きもされないコウモリ岩だが、江戸時代には、「ぼっくい珍しかとばい!」と口コミでバズり、近隣の村人が弁当を下げて見物に来ていたのかもしれない。


   現在の井崎地区

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        Googleマップ航空写真より


 砂浜から見て南側の海岸には、崖と岩場が続いている。古地図には、海岸を回り込んだ所に「鯨堂」と書いてある。クジラドウと読むのだろうか。


 何で鯨堂なのか検討がつかなかったので、潮が引いた際に確かめに行った。


 海岸の丸石は途中まで平らに均され、軽トラが通れるようになっていた。

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 崖は垂直な岩壁で、下の方に高さ数十センチの赤い層が露出している。触るとそれほど硬くなく、地下水で湿っているため指に赤い泥水がつく。

 火山灰土壌の赤い土が圧縮されたものだろうか?

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 この赤い層が波で削られ、上の岩が浮いているような所もある。

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 崖の下には、長い年月の間に崩落したであろう、多数の大岩が転がっている。赤い部分が無くなって、転げ落ちたのか。

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 自分は地学に詳しい訳ではないが、こんな地層は他に見たことがない。



 この岬一帯の小字地名は「竹崎(たけんざき)」。古地図にも「竹ノ崎」と書いてある。地名のタケは、高いところを示す。海岸が崖なのが理由と思われる。


 道が途切れた所に、海水に浸かって朽ち果てた機械の破片が放置されている。古代文明のロボットの一部かと思ったが、よく見たら軽トラの後ろの車軸だった。

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 ここで一体何があったのだろうか。


 さらに奥へ進むと、赤土の層が広くむき出しになっている。

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 そして、赤土の層の上に、テーブル状になった四角い岩が乗っている。

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 まるで、切った鯨肉のように。



 「堂」という漢字には、「土を盛った台」の意味がある。


 〇〇ドウという地名の土地は、大抵が周囲よりも高くて上が平坦になっている。

 (※当社調べ)


・諫早市高来町 榎堂(えのきどう)

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 ※エノキはエ(壊)・ノキ(退き)で、崩れやすい土地と思われる。

 

・大村市西部町 小字:徳道(とくどう)

 海へ続くゆるい傾斜地で、ここだけ周囲より高い。大昔の地すべり跡にも見える。

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     Googleマップ航空写真より


 (この上にある「いちゃりば」の沖縄ソーキそばが、ウマーシャス!)

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「とく」は床の間の(とこ)で、これも「周囲より高い」という事らしい。

 ※「徳道」の字は、奈良時代の仏教僧、徳道上人の名を借りたものか。



 井崎海岸の、鯨肉の断面のようなテーブル状の岩


 おそらくこれが「鯨堂」なのだろうと思う。

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 コウモリ岩の砂浜の西側には、干拓地と思われる平坦で四角い田んぼの一角がある。


 ここは「中道(なかみち)」という小字地名なので、昔は潮が引いたら海岸を歩ける「海の中道」だったのだろうと考えていたが、古地図を見ると、やはり広い入江だった。

 昭和22年の航空写真や、昭和初期に改訂された地図ではすでに陸なので、それ以前に埋め立てられたという事が、古地図によって明らかになった。



 コウモリ岩の北側、長崎生コンクリート株式会社の敷地には、洋食屋のチキンライスのような形に盛り上がった小山がある。元は兎島(うさぎじま)という島で、周囲を埋め立てて陸地化されている。

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 地名用語の「ウサ・イサ」は砂地を表す。周囲の浜には砂の堆積があり、古地図ではトンボロ(陸繋島)のように描かれ、名称は「ウサキ嶋」とある。


 蝙蝠岩とウサキ嶋の間の海岸は「小中道」なので、昔からこの地域は全体的に砂地だったらしい。


 潮が引いた砂浜は、下が岩盤だからか、意外と固く締まっていて歩きやすい。この辺りは干潮時だけ行き来できる近道のようなルートだったと思われる。


 現在の兎島は、ダンプが砂を積んで上まで登り、斜面に落として溜めておく場所になっている。偶然とは言え、地名用語の通り砂の島だ。



 「竹崎」の岬全体の南側には、長濱」という砂浜がある。

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 地元に伝わる昔話「鬼の泣く浜」の舞台のためか、長崎県の小字地名総覧での読み方は「なくはま」となっている。


 漢字の通り、そこそこ長い浜だが、ここにもコウモリ岩のような黒い岩がたくさん露出している。

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 岩礁の海岸には、特に長くなくても「長(なが)」のつく地名をよく見る。それは薙(なぎ)に崩壊崖の意味があるので、名詞化して「ナガ」になったからと考えられる。


 長浜の海岸にある黒い岩が、陸からはがれ落ちていたのなら、「薙(ぐ)浜」だったのかもしれない。



 コウモリ岩や鯨堂のある、「井崎(いざき)」という地名は、文字に従えば「水のある岬」だが、状況から見て、イサ(砂)キ(所)で、「砂がある所」の意味だったのではないだろうか。


 イザキと兎島のウサキは、音が近く意味も共通している。


 もしかしたら、ウサキ嶋も元はイサキ嶋で、コウモリ岩や鯨堂などの「いきものシリーズ」の名に変えようということになり、兎島になったのかもしれない。


 ちなみに、兎島の北側にある岬は「猿崎(さるがさき)」


 あと、「イサ」は石のことを言う場合もあり、石原と書いてイサと読む地名もある。


 「変な石があるところ」の可能性も捨てきれない。



 諫早市は、昔から干拓が盛んだった事もあり、自然の海岸が残っているところが少ない。それでも小長井町はまだ、自然のままの地形があちこちにある。

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 しかもそれが、何万年も前からあまり変わっていない風景だと思うと、金銭的な価値では計れない貴重なものに思えてくる。


 今回は古地図のお陰で、ちょっとだけ昔の人の目線で、井崎海岸の珍しい風景を楽しむことができたかな。



 ・参考文献:古代地名語源辞典 楠原佑介編


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福重 謎の線刻石仏

古かもん見てさる記
02 /19 2023

 大村市北部、海岸から野岳の中腹にかけて広がる「福重(ふくしげ)地区」は、梨やぶどうなどのフルーツ栽培で知られる営農地帯。

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 収穫の時期、各ファームの直売所は、旬の果実を待ちわびた人々で賑わう。


 丘の上の農業複合施設「おおむら夢ファームシュシュ」は、地元の農産品販売をはじめ、焼き立てパンにバイキングレストラン、更にはフルーツ狩りや農業体験も出来る人気の観光スポット。

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 休日のジェラート売り場には、長い行列ができ


 丘から見下ろす大村湾市街地の眺望もまた素晴らしい。雲間から海に光が差してキラキラと輝く様を見ると、男同士でもつい、手をつないでしまいそうになる。



 そのシュシュがある弥勒寺(みろくじ)町周辺と、近隣の武留路(むるろ)町には、「線刻石仏」と呼ばれる、珍しい形態の古い石像が点在している。


 自分は「福重ホームページ」という、地元の方が運営するサイトでその存在を知った。石像の写真の描線に着色するなど、判りやすく詳しく紹介されていた。

  ※福重ホームページ CG石仏写真(福重の石仏)へ

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 福重地区に関する様々な情報をはじめ、大村全般の昔の事も書かれており、たびたび参考にさせてもらっている。

 散歩記とは違って、お下劣な冗談とかは皆無なので、お子様の閲覧も安心だ。

(普通はそうだろう)

 

 石像はほとんどが座像で、自然石の平坦な面に線を彫って描かれている。線は細くて浅いため、近づかないと姿がよく認識できない。平安時代頃の製作と言われている。


 ほとんどが野山の露天に祀ってあったが、一部は別の場所へ移されている。


 頭頂部が盛り上がった「肉髻(にっけい)」のあるものが多く、一部には光背の輪が描かれており、見た目はほぼ仏像。

 しかし、一般的な仏像とは違って手指は印を結んでおらず、着衣の下に両手を隠している。そのため、中国式挨拶の「拱手(きょうしゅ)をしているように見える。


 「もっこり」しているのではない。


 同様の石像は全国でも類例がなく、神様か仏様か、神仏習合の権現様か、まだ明らかになっていないそうだ。

 「石仏」と呼ばれているのは、やはり見た目が仏像だからだろう。



◎石像が祀られていた場所 


 ①弥勒寺町 上八龍(小字)

 ②同上   下八龍(小字)

 ③同上   清水(小字)

 ④同上   石堂屋敷(昔の小字?)

 ⑤福重町  石走(小字)

 ⑥武留路町 仏岩三社大明神(石仏の名称)


 弥勒寺町周辺の地図

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  Googleマップ3D航空写真より



う~ん、謎のと言われちゃあ、ほっとく訳にはいきませんなァ!

という訳で、今回もまた勝手に調べてみる事にした。


 大村市史や郷土関係の文献によると、線刻石仏は、むかし弥勒寺町にあった弥勒寺や、修験道、密教などに関係するものと考えられているようだ。


 学者の先生は、拱手している仏像なので、「三十日秘仏」の中の十二日に縁のある「難勝仏(なんしょうぶつ)」であろうと言う。

 難勝仏は、他の仏より智悲行徳が優れているとされ、維摩経(ゆいまきょう)という経巻に登場する。だがそれ以上の事は判らないし、そんな超レアな仏さまを、この地域だけがあちこちに祀る理由も見つからない。

 大村郷村記で、石走(いしばしり)の石仏の祭礼日が九月十二日となっている事も根拠らしいが、なぜ九月だけなのか。

 旧暦の九月十二日は九州では稲の収穫後の時期。石走の石仏がある場所は元々農家だった。農業神と考えるのが自然ではないのか。


 形や文字や数字だけでなく、まずは作った人達、祀った人達の状況や気持ちから考えないと納得のゆく答えにたどり着かないと思う。



◎昔の福重地区全般はどのような所だったのか

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     ※郡川の河口付近より、東側の野岳方面を望む 左端は武留路山


 福重地区周辺の郡(こおり)という地名は、古代の役所である「郡、郡家(こおげ)」に関する地名と言われている。官道の駅家もこの地域にあったのかもしれない。


 郡川、佐奈川内川の流域は、古くから低湿地が広がる稲作地帯で、竹松地区を含め、食料を貯蔵、運搬する施設もあった。関連する遺跡も多い。


 時代には多くの神社仏閣があり、「郡七山十坊」と呼ばれていた。「弥勒寺」「東光寺」「龍福寺(立福寺)」など、昔あったと言われている寺の名が地名になっている。


 福重地区背後の郡岳(こおりだけ)は、古くは太郎岳(たろうだけ)と呼ばれた修験道の山で、修験者達が行き来していた。


 様々な遺跡や伝承から、この辺りは室町時代くらいまで、大村の中心地だったと考えられている。



◎多くの石像が祀られていた弥勒寺(みろくじ)町周辺の様子

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 弥勒寺町は、野岳の麓の斜面地で、古くから田畑が開かれている。旧海岸から弥勒寺町公民館辺りまでは緩やかな坂で、それより上はけっこうな急勾配が続く。そして、農地にしては川らしい川が無い。現在は溜池や水道設備、地下水を汲み上げる電動ポンプなどもあるが、昔は湧き水や雨水が頼りだったはず。


 北隣りの草場町には、涸れない湧水があり、棚田が一面に広がっている。クサバのクサは、地名用語で湿地の事とされる。


 南隣りの立福寺(りふくじ)町は、佐奈川内川流域の低湿地に水田が続いている。古くは龍福寺と書いた。もしも地名が寺の名になったとすれば、龍は水を表し、フクは湿地なので、川と水田に関する地名だったのかも知れない。


 野岳周辺の土地は、湧き水はあるが水量が不安定な上、地質や地形的な問題もあって、雨が多いと洪水になり、日照りが少し続くと田畑が枯れるような土地が多かった。 

 江戸時代になって、鯨捕りで大富豪になった深澤義太夫が、野岳周辺に多くの溜め池と水路を作り、ようやく安定した水を得られるようになったということだ。


 弥勒寺町と福重町(旧:矢上郷)の斜面は、周囲の土地と比べて自然の水が少なく、傾斜もきつく凹凸も多い。大雨や日照りの時は、大きく影響を受けただろう。


 「弥勒」は無論、弥勒菩薩の事であり、全国に同名の寺は多いが、もしもミロクという地名が先にあったとしたら、ミロクのロクは石(碌)で、石が多い荒れ地を示す地名だったのかもしれない。

 実際、あちこちに大きな石が転がっており、そういう印象を受けた。


 農地としては、決してよい場所では無かったはず。

 ここは、「あとから来た人たち」が苦労して切り開いた土地だったろう。

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 ※ちなみに、和歌山県海草郡紀美野町の箕六(みろく)地区をGoogleストリートビューで見ると、山の急斜面であり、地層に多くの石を含んだ所のようだ。

  34°07'28.4"N 135°21'33.3"E


 弥勒寺町周辺には、線刻石仏以外にも多くの仏像や仏塔類がある。詳しくは福重HPで。



線刻石仏は、いつ、誰が、どのような目的で祀ったのか。


 いろんな説があるとは思うのだが、この石仏は、古い時代に仏教によって可視化された「水の神」だと自分は考える。

 祀ったのは土地の農民。製作に関わったのは、この地域にあったと言われる「弥勒寺」の僧侶だったかもしれない。


 農民にとって、水は生命線であり、少なすぎると作物はすべて枯れ、多すぎると腐ったり田畑ごと流されたりする。ちょうどよい量の水を与えてくれるよう、昔から人は神に祈ってきた。



 自分は、この件を調べるうちにある事に気づき、石像は水神で、湧き水のある場所に祀ったのではないかと思い始めた。 

 そして、この仮説を証明するため、それぞれの祭祀場所へ、お~いお茶とおやつを持って調査に向かった。


・弥勒寺町 上八龍:かみはちりゅう(小字)  

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 石仏は、シュシュから見上げた高速道路のさらに上、傾斜地の田んぼの脇にあったが、現在は弥勒寺町の公民館敷地内に移設されている。

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 この周辺には、高速道路を挟んで「上八龍遺跡」という縄文・弥生時代の集落遺跡が広がっていた。

 

 線刻石仏は遺跡の調査報告書にも記載されている。

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    ・九州横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財緊急発掘調査報告書 Ⅷより

 元々あった場所がよく判らず、地元の人たちに聞いておおよその場所を特定した。そこには野岳の溜め池から引かれた水路があり、その向こう側の壁の穴からはいつも水がちょろちょろ流れ出ていた。 

 ここは水路に水がまったく無い時も出ている。湧水に違いない。

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 畑で作業をされていた農家の人たちの話では、上の方の道路や住宅が開発される前は、あちこちからもっと多くの水が湧き出していたとのことだった。


 この場所のすぐそばには森が繁っている。沼の跡らしい所もあり、地下には水が通っているはず。野岳の溜め池ができる以前は、さらに多くの水が出ていたのだろう。

 縄文人が、川の無い山の斜面に住んでいたことも理解できる。


 地元のおじいさんの話では、この辺りを八龍谷(はちりゅうだん)と呼び、石仏は「岩(いわ)さま」と呼んで大事にされていたそうだ。


 そして、「八龍」という小字地名自体が、水との関連を示唆している。八龍は、法華経に登場する八柱の龍神で、水の神とされる。農民には、祈雨・止雨の神として、漁民には、海の神として全国で古くから祀られてきた。


 八大龍王の内、和修吉(わしゅうきつ)龍王は、九頭龍王(くずりゅうおう)として日本で広く信仰されている。阿那婆達多 (あなばだった)龍王は、大河を出して人間界を潤すと言われている。

 そして、この二神は、中国経由の仏画では「拱手」の姿で描かれている事が多い。


 シュシュから農道を少し上った所に、以前「八龍古墳」という遺跡があった。地元の人はそこを「八龍権現」と呼んで祀っていたとの記録がある。江戸時代に作られた野岳溜め池の水路脇で水に関係する場所だ。

 この辺りは、溜め池の水路になる以前も、大水の通り道だったと思われる点がある。溜め池の水路にしては谷の地形がいやに深いし、真下にある草場町の小字「萩原(はぎはら)」は、水や土砂で土地がはがされる意味と考えられるからだ。


 学者の先生は、この古墳について「八龍権現とかいって部落民の土俗信仰の対象となっている」と一言で片付けているが、水の供給が不安定な土地の農民にとっては、本当に大切な存在だったはずだ。


 これらの事から、小字地名の「八龍」は、八龍権現の存在に由来するものだと思う。


 付近の民家に訊いて回ったが、現在、八龍権現について知る人は見つからなかった。世代が変わり、完全に忘れられてしまったのかもしれない。


 線刻石仏が八大龍王だと断定はしないが、状況的にはそれもあり得ると思う。江戸時代の八大龍王は体に龍が巻き付いた姿で描かれたが、それ以前はどうだったのだろうか。資料がなく、記憶と想像で描かれたこともあったのではないか。


 

・弥勒寺町 下八龍:しもはちりゅう(小字) 


 現在、下八龍の線刻石仏は、シュシュの駐車場の池の奥に置かれている。

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 ※モヒカン頭なのではない。


 ここの線刻石仏は、「元はシュシュの近くにあった」という情報だけだったので、その辺りで湧水のある所を探した。すると、坂の途中、山口梨園のそばに石囲いをした池を見つけた。

 立派な大木が木陰を作っている。中を覗くと、いくらか水が溜まっており、ポンプも設置してある。これはどう見ても湧水だ。

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 山口梨園の奥さんに訊いたところ、線刻石仏は、自宅裏の竹林にあったという事だった。やはりそこにも湧水があり、以前は家まで引いて飲み水に利用されていたそうだ。



・弥勒寺町 清水:しみず(小字)  

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 線刻石仏について調べ始めた当初、湧き水のそばに祀られたのではないかと考え、福重ホームページを見直すと「清水」にもあると書いてあった。ああ、やはりそうかと納得した。

 清水は湧水のことであり、この場所と同じように崖下にあることが多い。岩の上のすき間から染み出す水で岩の表面にコケが生え、線刻石仏の姿はよく判らなかった。この場所には、比較的新しい安産祈願の観音様が祀られている。



・弥勒寺町 石堂屋敷:いしどうやしき 


弥勒寺町公民館の西側 周囲より高くなった林の中にある。

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 石堂屋敷という地名は、長崎県の小字地名総覧には記載が無いが、大村郷村記には出てくる。昔あった弥勒寺のすぐ近くなので、関連する建物がそばにあったのかもしれない。


 畑の脇から入ると、まず大きな仏頭が祀られている。上に上がると、習作や製作途中と思われる線刻石仏が複数ある。ここは祭祀場所だけでなく、半分は工房だったのではないか。

 弥勒寺はこのすぐ近くにあったそうなので、ここで僧侶や農民が石仏を彫る練習をしていたのかもしれない。


 この辺りの小字名は「赤坊園」という。アカは赤土の意味もあるが、水を示す事も多い。ボウは大抵崩壊地で、ソノは石がゴロゴロしている所につけられる。


 湧き水はどうかというと、この辺りが石走川の水源らしい。公民館の前に貯水槽がある。石堂屋敷のそばの民家は崖下で裏に井戸がある。そのほか、水路の側面や田んぼの脇などからも水が細く出ているのを確認した。



・福重町 石走:いしばしり(小字)

 

 ここは傾斜地ではなく扇状地の先端で、大昔は海岸の近くだった所。民家の庭にある。


 訪問して見させてもらった。線刻石仏は、石室だったと思われる板石に彫られていて、高さ2mくらいの古墳の盛り土の上に鎮座している。古墳をリサイクルした地球に優しい仏様だ。

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 一緒にある半身の石仏は、宝冠を被っているように見えるが、八大龍王の像もたいてい宝冠を被っている。


 しかし、周囲に湧き水がある場所は見あたらない。石仏は、江戸時代以前に別の場所から運んできたのだろうか?と諦めかけていた。

 しかし、粘って調査を続けていると、雨上がりの日、すぐ近くにある会社敷地の土台部分の塩ビパイプから、水がジャバジャバ流れ落ちているのが見えた。側溝の水は別のところへ落ちているので、雨混じりなのだろうが、地下を流れてきた水のはずだ。

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 さらに、地元の人から、自分らが小さい頃は、石走の道祖神そばの大木の辺りからも水が出ていたと聞いた。

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 ここにも、湧き水はあった。


 石走(いしばしり)という地名は、最初、大雨で水路から溢れた石が転げ回る所だと思った。 しかし、万葉集に「石走る(いわばしる)垂水(たるみ)の上のさわらびの‥」という歌 があり、岩の上をほとばしる水という意味から、滝のように落ちる湧水があった事による地名とも考えられないだろうか。



・武留路町 仏岩三社大明神(線刻石仏の呼び名)


 最後に、武留路(むるろ)町へ。福重地区とは少し離れている。大村市の北端で、東彼杵郡との境界の町。昭和38年までは東彼杵郡に属していた。

 美しい円すい形の武留路山が遠くからもよく見えているが、実は武留路山は東彼杵町のまま。

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   ※Googleマップ 3D航空写真より

 

 ここの仏岩三社大明神に湧き水があれば、ミッションクリアだ。


 当時、「祭祀場所は餅の浜川沿いの崖」という情報だけだった。行きゃあ分かるだろうと探しに行ったが、川沿いをいくらウロウロしてもそれらしい崖が無い。

 途方に暮れていると、黄色い蝶がひらひらと自分のそばに飛んできた。何気なしに、「仏様はどこね?」と尋ねると、蝶は工事中の西九州新幹線の橋脚の方へ、まるで案内するかのように羽ばたき、ふわふわと宙に舞っている。


 まさかと思って見上げると、鉄橋の下のヤブの奥に、断崖と石塔の頭のようなものが見える。ここだ!間違いない。

 また調査中に不思議なことが起きた。これはもう、誰かが哀れに思って助けてくれているのだろう。


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         ※個人所有地で地主様の許可を得て撮影しています


 下からは登れないので、集落の畑で片付け中のご夫婦に行き方を教えてもらい、あぜ道を進んだ。イノシシ除けの柵を開けると、崖のキワの狭い道に「農業用水の水路」が続いていた。

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 水だ! 湧水の期待が高まる。


 雨上がりだったが、水路の周囲はきれいに掃除されていた。


 夏場なので、毒蛇やイノシシと遭遇するかもしれない。オラッ!シャーッ!見えない敵を威嚇しながら進んだ。不意にガサガサと物音がして、何かが足元を横切った!

 キャー!と言って逃げながら横目で見ると、茶色い毛がフサフサした小さい動物だった。キツネのようにも見えたが、よく判らなかった。おとなしいスピッツだったかもしれない。


 仏岩三社大明神の祭祀場所に到着。断崖の岩壁に、高さが4m近くもある巨大な線刻石仏が描かれ、右側に小さいサイズのものが2体描かれている。

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 大きい方は苔や水で描線が見えにくく、かろうじて頭部が認識できた。

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 すぐ近くに新幹線の橋脚があり、ほぼ真上に橋が架かっている。ひとつ間違えたら石仏もコンクリートで埋められていたかもしれない。


 仏岩三社大明神の、「仏岩」は名の通りだが、「三社」は集落にある神社、三社大権現によるものだろう。「大明神」の名称が正しければ、大権現の「仮に神の姿で現れた仏」ではなく、「姿を現した神そのもの」ということになる。しかしそれは、どちらであっても大した問題ではない。


 ただ、残念な事にここは水源ではなく、水路はもっと奥の方から続いていた。たぶん、ダムの上の鳴滝辺りから取水しているのだろう。


 水路がいつ頃からあったかは判らないが、大村郷村記には、餅の浜川の石橋から、上流の井手之平まで、渓川境左右田畑なりと書かれているので、たぶん古くからあったと思う。


水路の途中の危険な崖に、これほど巨大な石仏を彫ったのは、やはり昔の人たちが水の供給を切実に願い、神仏に訴えようとしたからではないだろうか。


 それにしても、祭祀場所の荒れようはどうだ!まるで土砂崩れあとではないか。この大きなダクトは、余分な水を捨て流すためのものだろう!?

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 あとで、餅の浜川のほとりにいた農家のおじいさんに訊いたところ、新幹線の工事で、石仏の崖の上から大量の水が滝のように流れ出て、工事関係者は難儀していたそうだ。崩れているのはそれが原因らしい。これはバッチリ修復してもらわんといかん。


 いやまてよ、それなら、以前は岩壁の周辺から湧き水が出ていたのかもしれないではないか。


 まあ、ともかく、線刻石仏が水の神である可能性は高まったと思う。



 国道から武留路町の集落へ上ってすぐの所に、自然石の水道記念碑が建っている。碑文によると、武留路地区は玄武岩地質のため昔から生活用水が乏しく、昭和45年に地下ボウリングが行われるまでは、湧き水と浅井戸で何とか水を得ていたらしい。


 碑文は、「汲めど尽きぬ」水道ができた喜びに満ちていた。ここもほんの数十年前まで、水で苦労してきた土地だったのだ。

 

 用水路の行方を辿ると、集落下方の尾根をぐるりと回り込んで海側へ続き、多くの棚田を潤していた。(3D地図の細い青線) どれくらいの間、この用水路は守られてきたのだろうか。

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 ─── 遠い遠い昔、人々はまだ目に見えない存在だった神に、生活と農耕に必要な水を、尽きることなく与えてほしいと願った。


 やがて仏教が広まると、「見えない神より姿のある仏の方が民衆に信心されやすい」という話になり、神にも姿が付加され、神像が作られるようになっていった。


 弥勒寺周辺の農民も、水神の像を祀ろうと考え、寺に相談する。日本の仏教では、八大龍王が水の神とされることが多かったが、当時、図書館もネットもなく、外観などの詳しい資料が手に入らない。

 それに、農民が古くから大切にしてきた水神を、急に別の龍神に変えるのも抵抗があっただろう。


 僧侶たちは仏典の八大龍王からイメージを膨らませ、オリジナルの解釈を加えた水の神を石に刻んで水源に祀った。

 時代が進み、八大龍王の信仰が盛んになると、八龍権現として祀られるようになった。


 ザックリ、こういう事ではなかったのだろうか。

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 さて、言いたい事はだいたい言ったので、そろそろ終わろう。



 最後に、自分がなぜ、石仏が湧水源にあったと考えたかというと・・


 石仏が胸の前で拱手(きょうしゅ)する形と線は、湧いてあふれる水のイメージではないかと思ったからなのです。 

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縄文 謎のY字材を考える

古かもん見てさる記
06 /05 2021
 自転車や地名の記事も準備しているのだが、なかなか進まないので(それを怠けと言う)、今回はちょっと目先の変わった話をひとつ。

 1997年、富山県小矢部市の桜町遺跡から出土した縄文時代の木製品の中に、長さ2.5mで用途不明の「謎のY字材」があった。
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   小矢部市教育委員会発行 JOMONパーク桜町遺跡ガイドより

 自分は去年のヤフーニュースで初めて知ったが、地元では早くから話題になり、様々な意見が寄せられ、町おこしにも役立てられていた。
 去年のニュースでは、これはテコの原理を使った「丸太を引き上げる道具」かもという事で、桜町石斧の会の人達がレプリカで実証実験をされていた。面白い試みだったが、説自体は、ちょっとどうかなという感じだ。

 しかし、謎好きの自分としては、興味津々!

 おう!と聞いては黙っちゃいられねぇや。大江戸八百八町、かけてもつれた謎を解くのが、岡っ引きの役目ってもんでぇ!(いや、富山ですがね)

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   小矢部市教育委員会発行 JOMONパーク桜町遺跡ガイドより

 早速、小矢部市のホームページなどを見て、こりゃ何じゃろかいと考えた。
 そして、程なく飽きた‥。

 今年になって、また思い出して検索してみたら、これは「修羅」という、重いものを運ぶ木ぞりでほぼ決定~!みたいな話になっているようだった。
「えっ、シュラ?そうなの?」
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Web風土記ふじいでら 三ツ塚古墳出土の修羅 ←リンク

 去年の秋には、親子でY字木ゾリを引いて荷物を運ぶレースイベントが開催されたらしい。

 福井大学やら日本機械学会やらの学者先生が、「これは木ゾリであろう」という論文を書かれていた。それなら間違いないのだろうと研究の概要を読んでみたが、どうも違う気がする。
※桜町遺跡出土のY字材用途(Y字材の用途の検討) ←リンク(PDFファイル)

 これはやはり、よく確かめてみる必要がありそうだ。

 まず、Y字材に関する情報を整理しよう。
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    富山県小矢部市桜町遺跡発掘調査報告書より(一部追記)
   
・Y字材は、谷間の遺跡から、太めのAと、細めのBの2本が出土した。
・地下水の流れの中にあったため、木材だが奇跡的に原型を留めていた。
・いずれも長さは約2.5m。Aの方が、材が太めで二股部の開きが大きい。
・二股部の片面だけ、平面に加工されている。(※こちらを仮に表側とする)
・Aは、二股部先端の表側に欠き込みがある。Bは摩耗して判断が難しい。
・Y字の下側になる部分は、先端が少し絞り込んだ形になっている。  
・平面部の反対側の面には、加工痕や摩耗痕が無い。


◎「修羅(木ぞり)である」とした場合の疑問点は、次の通り
・大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳出土の「修羅」(下の写真)と形は少し似ているが、構造的な共通点は見えない。
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・先端になる部分の裏側は、ソリだけにそり上がった形状にすべきだが、Aはそうなっていない。Bは底面のコブが仕上げられていない。ソリならこれは大きな抵抗になる。
・重いものを運ぶ木ぞりにしては、二股部の厚みが、Aで最低140mm、Bで120mmと薄く、強度が足りなさそう。
・二股部先端の欠き込みは、ココを棒で押して運ぶタイプのためとされているが、それで効率的な推進力が得られるとは思えない。また、左右別々に押してまっすぐ進むのは難しい。底面側に欠き込み加工をし、テコで持ち上げて少しづつ進んだ方が、まだマシではないか?
・補助的に前から引いたとしても、先端にロープや棒を取り付ける穴が無い。
・裏側(底面)に加工痕や摩耗痕が無いのは、丸太の上を転がしたためか、あるいは新品だからとされている。しかし、丸太の上を転がしても線状の痕は必ず付く。それ以前にAの底面はコークボトルのように凹凸がある。底面はほぼ平らでないと、ソリとして成り立たないはずだ。


◎Y字材の特徴ごとに、その役割を考えてみる
 Q:二股部の片側の平面加工は何のためか?
 A:物を置くため 上で作業をする 人が乗りやすい 
  →平面部を上向きにして使った可能性が高い

 Q:二股部先端の表側に、欠き込みがあるのはなぜか?
 A:他の部材を固定する 手や足をかける ロープをかける
  →平面部を上にして置き、欠き込み部を段付の杭で止めた  

 Q:Y字の下端部が細く絞り込まれているのはなぜ?
 A:地面に打ち込む 地面に差し込む、埋める 船だから
  →平面部を上にして、斜面や崖面に打ち込んだ
  →水に浮かべて使ったのかも

 やはり片側の平面加工が大きな特徴なので、上記を踏まえ、次の3つの用途に絞り込んだ。
 ①橋
 ②立って乗るボート(いかだ)
 ③人が上に乗って何かするもの


 ①、②は、小矢部市の(おそらく)子ども達の案にもあったが、論文では完全否定されていた。 
 
 ③は、①も②も含んで範囲が広い。大きさからして、人が上に乗るものだと思うが、つまりは「よく判んない」という事だ。さらに絞り込んでいくが、なかなか答えが見つからなかった。

 このY字材は、一体「何をするためのもの」だったのか?
 まあ、答えが出なくても、あれこれ空想することが楽しいのだが‥
 空想? クーソー‥

ハッ!もしかして!

「ウンコ」か!?
これは、トイレではないのか?

 日本では昔、トイレを、厠(かわや)と言った。元々は「川屋」であり、川に突き出した所に足場を組み、そこで用を足していた。ただ、誰も現物を見た者はいない。
 Y字材は、二股の部分を川に突き出し、そこに座って用を足していたのではないか?
 
「縄文式Y型水洗トイレ」と名づけた!
 (勝手に決めて名づけるな!)
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 ◎Y字材各部の、おおよその寸法 
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    富山県小矢部市桜町遺跡発掘調査報告書より(一部追記)

 サイズ的にも、便器になる部分の幅は現在の和式便器と大差なく、二股の板の部分に足を乗せてしゃがんだら、自然にホールインワンだ!
 A、Bふたつのサイズの違いは、大人用、子ども用で使い分けたと考えられる。さらにY字なので、座る位置でアナタにピッタリの微調整も可能!
 座る部分は平面仕上げ。あわて者が足を滑らせ、ウンコと一緒に川に落ちる恐れもない!
 そしてまた 川に向かって立ちションすれば ほんに気持ちがようごんす
 (歌を詠むな!)

 それから、Y字材ならば、トイレを効率よく設置できるだろう。

 広い小川なら、Y字材を川の土手の側面に水平に打ち込む。あるいは、何か丸太など重いものに先端を差し込んで固定する。そして、柱になる部材を2本、川に打ち立て、そこにY字部が乗るように調整する。
 安全対策として、柵を立てたりロープを張ったりしたのではないか。
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 狭いクリークなら、Y字材を渡し、動かないように杭などで固定すればOK。この場合は橋としても機能する。
 雨期などには、素早くはずして保管することもできる。自然の川は形が変化するので、それに対応できるように改良していた事も考えられる。

 Y字材はトイレでは?と思い、古代のトイレの画像を検索したら、弥生時代の川屋トイレの想像図が、あまりにも考えたものと似ていて、漏らしそうになった! 
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   (↑TOTO博物館の展示模型写真を参考に、たわしが書いた)
 入手しやすい材料になったが形は同じ。これは期待できるかも!

 縄文時代の集落跡では、トイレの跡が見つからないと言う。木製の川屋だったため、ほとんど遺構が残っていないのだろう。
 昔は、庶民は野っぱらにしゃがんでタレていたと言われているが、それでは人口が多い集落だと、縄文語で「ウンコふみお」というニックネームの人が急増して、収拾がつかなかったはずだ。
 第一、村中がウンコくさかろう!

 この時代の衛生観念や羞恥心がどのようなものかは判らないが、整然と文化的な集落を形成していた集団なら、決まった場所をトイレにしていたと思う。

 ちなみに、ウンコを肥料として利用するようになったのは平安時代頃からの事らしい。
  (何度もウンコウンコ言うな!)

 さて、Y字材は縄文のトイレだったかもと言うのが、今回のお話じゃった。
 股木だけに、股つながりということでね。

 ただ、万が一そうだった場合、町おこしの体験イベント開催は、非常に困難になるだろう‥。

諫早のえべっさんを追加  

古かもん見てさる記
03 /22 2021
 たわしが住んでいる諫早市は、昔、佐賀藩の領地だったからか、海岸地域や城下では、えびす神が盛んに祀られていた。
 えびす神は、釣り竿を持って鯛を脇に抱えているように、元は豊漁の神だった。それがいつの頃からか、商売繁盛の神、福の神として広く信仰されるようになった。
 諫早では、えべっさんと呼ばれ親しまれている。
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 えびす神の成り立ちは諸説あるのだが、豊かな異世界から訪れて幸をもたらす「来訪神」であることに間違いはなさそうだ。

 2018年、諫早市内にある210体のえべっさんを調べ、その写真と所在地をまとめた「諫早のえべっさん辞典」という本が、諫早えびす研究会という有志の手によって出版された。
 連綿と続いた民衆の習わしが急激に失われている今、こういう記録を残す取り組みはとても喜ばしい。

 早速、書店へ向かい、そのまま通り過ぎて図書館で借りた。(買えよ)
 自分も結構、市内のえびすさんは見ているつもりだったが、知らないものも多く、大変参考になった。

 著者の諫早えびす研究会は、今後のネット上での展開を予告されていたので、続編を待っていたが、現在は検索しても活動が確認できない。

 と、いうわけで、今回は「諫早のえべっさん辞典」に記載がなかったえべっさんを、わしの写真ラバトリーの中からご紹介するだに。 

 久山町 久山港改修の際に新しく作られた、えびすさんと大黒さん
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 多良見町木床 舟津の祇園さん近く 道路沿いの民家
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 多良見町東園 海の中のカーブした線路内にある漁港近く 酒店の隣り 
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 津水町 熊野神社内 町内に祀られていたものか 
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 ここは大村との藩境の地 キリシタンに破壊されたのかも 

 宗方町の下溜池の堤防 水神さんと共に祀られている
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 なぜか、石の高い台座の上に‥
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 山の中でも、水がある所にはえびすさんが祀られる事もあるという例

 有喜漁港の前 大きな八大龍王像の所
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 以前も紹介したが、諫早では珍しい双体えびすも        
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 諫早のえべっさん辞典では、双体えびすは、えびすさんと大黒さんのコンビとあったが、ここはどちらもえびすさん。言うなれば、ステレオえびすだ。

 有喜漁港前の道路に面した民家
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 笑顔が最高

 そして、これは一番のお気に入り!
 小長井町 牧 三夜さん近く 民家の石垣の上
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 えびすさんに見えるのだが、鯛がよく確認できない。逃げたのだろうか。

 えびすさんは、ある所には幾らでもあるので見過ごしがちになるが、よく見るとそれぞれ個性があり、味がある。でもやっぱり、自分もつられて笑ってしまうような、思いっきり笑顔のえべっさんがいいね。
 
 

南島原市の猿石(さるいし)

古かもん見てさる記
03 /11 2021
 南島原市の有家町周辺には、「猿石」と呼ばれる謎の石像があちこちに祀られている。いや、「猿岩石」ではない。
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 布津町郷土史より

 確かに普通の石仏や神像とは違う、異形のものだ。

 しかし、と聞いちゃあ、放っておけねえ。これは一丁、調べてみるか。
「行くぞ、股八」「へぃ、親分!」 

 猿石とは元々、奈良県明日香村の畑から掘り出された数体の古い石像のこと。猿石の名は、動物的で呪術的で異国的でミステーリアスガールな、その外観によるものだ。
飛鳥資料館 猿石 ←リンク

 南島原市の猿石の場合は、調査した大学の先生が、明日香村のと似ているので猿石と名づけたらしい。ただ、資料によっては、「石人(せきじん)」とも書かれていてややこしい。

 大体、すべてのものを「猿石」とひとくくりにしているが、その形態は一様でなく、大まかには次のように分類できる。

①弥勒(みろく)さんや羅漢(らかん)さんと呼ばれる、ずんぐりした胴体に平面的な顔が乗り、手足の表現が無いもの。
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②頭部は立体的で、手足があるもの。中には男根の表現、つまりチ◯コ付きと言われるものもある。
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 弥勒さんと呼ばれる前者は、韓国の弥勒寺跡にあるものとよく似ており、弥勒信仰を通じた朝鮮半島との繋がりを示唆すると言う。
 56億7千万年後に地上に降臨し、迷える衆生を救うとされる弥勒菩薩は、広隆寺の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)のスマートなイメージが強いが、姿は国によってまちまち。

 韓国では頭がデカい三頭身の姿とされ、大きな石像がある。中国では、まんま七福神の布袋(ほてい)さんの姿であり、日本でも一部に取り入れられている。(布袋さんのモデルは、中国の実在の仏僧)

 南島原市の「弥勒さん」は、体形的には布袋さんの肥満体型を表しているようにも見える。顔が猿に似ているのは、ぜい肉の表現かもしれない。
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 後者になる、有家町寺山地区の二体は、布津町郷土史によると、発見時、「姿は地蔵のようで、顔は鬼面のようにも見える。大きい方は、たくましい男根がそそり立っていた」という。
キャーッ!

 性神は、普通、チ◯コそのもののフィギュアを、子孫繁栄、五穀豊穣を祈って祀る。しかし、日本の神仏像にチン◯がついたものは、温泉街のお土産以外では見たことがない。

 いずれにしても、写真では、たくましさやそそり立ち具合が判らないので、早速現地へ行ってしげしげと観察することにした。

 案内の看板を辿って民家の庭先を横切ると、妙香古墳という遺跡があり、二体の石像はその上の祠堂に並んでいた。
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 う~ん、本当にチ◯コか?位置がずいぶん体の中心からずれているが‥。

  こ~んな感じ?
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 いやもしかしてこれは、着物を着て右腕を水平にし、左腕を垂直にしているのではないか?小さい方も同じように見える。
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だとしたら、いったい何のポーズだろう? 

ハッ! まさか‥

スペシウム光線??
いや、違う、そうじゃない。
これは、背中に何かを担いでいるのだ!

ということは、
サンタクロースか!
何となくだけど、たぶん違う‥。
 
もしや、袋を担いだ布袋さん?
いやいや、こんなスマートな布袋さんはいない。

わかった!ドロボウじゃあ!
ンなわけあるかーい!

(さあ、もうそれくらいでいいでしょう)

この石像は、宇迦之御魂神(ウカのミタマのカミ)だと思う。

 ウカの神は、お稲荷さんの事。
 食物の神であり、稲束を背中に荷なった(担いだ)姿で描かれることが多い。
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海宇工芸館 宇迦之御魂神像

※つまり、こうだったのではないか?
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 お稲荷さんは、よくキツネの姿だと誤解されるが、キツネはお稲荷さんの眷属であり、お使い役。乗り物になっていることもある。

 石像の顔をよく見ると、あごの部分は伸ばしたヒゲにも見える。小さいほうは笑っているようだ。これは、福を呼ぶ老人の顔だろう。
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 東アジアの神は、白髭のある老人の姿で描かれる場合がとても多い。この共通イメージは、民衆の神が、元々は自分達を見守ってくれる長老であり、先祖だったからかもしれない。

 これがお稲荷さんだと思うのは、稲を荷なう格好だけでなく、この地が、古くからの稲荷神社という事実があるから。
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 そして、ここにある一番新しいお稲荷さんの神像も、しっかり稲束を荷なっている。
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 つまり、目の前に答えがあったということだ。

たぶん、二体の石像は、古い時代の稲荷神で、大きい古いほうが傷んできたので、小さいほうにリニューアルされたが、こちらも傷んだので現在の新しいものに替えられた。古い二体は「魂抜き」をしても粗末にはできないので近くに並べてあったが、世代が変わって忘れられていった。
 
 そういうことだと思う。思うのは自由なので、違っていても知らんばってん。

 それから、布津町の猿石を見に行った。

・木場原のものは「弥勒さんタイプ」だが、体全体が傾いており、よく見ると左肩の部分が右に比べて明らかに盛り上がっていて、重いものを担いでいるようにも思える。
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 洗いすぎなのか、郷土史の写真よりだいぶすり減っているようだ。

 そして珍しい事に、胸に文字か記号が彫られている。*アスタリスクのようだが、摩耗して明確ではない。
 「水なら水神。*なら、隠れキリシタンの聖記号」という学説が布津町郷土史に書かれていた。しかし、その「XIモノグラム」は、古代キリスト教のもので墓碑銘に彫られる記号らしい。ちょっと納得できない。

 「米」ではないかと思ったのだが、横棒は見えない。しかし、は元は「禾」と書き、元になった象形文字は、下の通り。
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 これは、実って穂を垂れる稲の形を表している。この茎に実がついて、米の字になる。記号がもし、先祖から伝わった稲のイメージであれば、食物の神様に違いない。
 あるいは、*コーモ‥  いや、なんでもない。

・尾篠(おざさ)集落のものは、場所の情報が無かった。神社と公民館を回った後、適当に歩いてやっと軽トラに乗った住民を発見。民家に入るのを追いかけ、「ハアハア、猿石て、どこらへんにあっとですか」と聞いた。

 庭にいたご夫婦は、「そいそい!」と、わたしの右斜め後方に当たる、塀の内側を指差した。
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 なーんと、集落で最初に訪ねた家の庭に、大事に祀られていた!こういう不思議な事はたびたび起きる。サンパー(散歩人)も、年季が入ってくるとレーダーが備わってくるのだろうか?

 布津町郷土史の写真では、胴体部分がえぐれたように凹凸があり、例によって「男根のある猿石」と紹介されていた。胸の辺りの丸い部分が「先っちょ」ということか。
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 しかし、現物を見ると、石の中にある石塊が、風化によって出てきたようにも見え、加工したのかどうかよく判らない。奥さんの話では、元の形とはだいぶ違っていて、「水で洗うたびにだんだん削れていったとやもんねアハハハ」ということだった。

 あらゆる角度から見ると、姿勢は前かがみで傾き、肩の張り出し方は左右で大きく異なって、背中も盛りあがっている。
 重いものを担ぐと、バランスを取るため体は斜めになる。木場原のものと同様、たわわに実った稲を担いでいるのだと思う。
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 今回、現物を見れなかった2体の写真も、左肩に何か担いでいるように見える。
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 では、まとめましょ。   
 現時点の結論は、これらの石像の大半は、猿でも人でもなく、農業神。お稲荷さんであるウカの神だと思う。

 造形が巧みで無いのは、作ったのが専門家ではなく、農民だったから。それは石工に頼む経済的な余裕が無かったからではないか。
 百姓に絵心などあるはずもなく、集落ごとに一番器用な者が、少ない情報と記憶によって手探りで作ったものと思う。
 
 石像がことごとく摩耗しているのは、素人の腕と道具でも加工できる柔らかい石を使ったから。

島原の乱が起きた一因として、当時の半島南側の農民は、溜池を作る技術が無くて収穫量を得られず貧しい暮らしが続いた。藩主は助けるどころか搾取しまくりで、異国の神にも頼ったが変わらず、ついに決起したと聞く。

 石像が、一揆の前という前提だが、具体的な改善の方法を知らない農民は、ただ働いて働いて、あとは神に祈るしかなかった。

 石像は、そういう厳しく必死な生活の記録なのではないか。そんな気がする。
 
 これが、そこそこ核心に近づいているか、大きく外しているかは、判らない。
 ただ、昔の人が作ったものの意味を知るには、何に似ているかばかりにとらわれず、誰が、何を求め、どういう気持ちで作ったかをよく考える必要があるのは、たぶん間違いない。 



Ramblingbird

長崎南部の自転車散歩やどうでもいい出来事を、小学生ギャグを交えて書き散らします。お下劣な表現を含みますのでご注意下さい。