小学生の頃、友達のMとはいつもバカ

を競っていた。
アホな言葉や遊びやアクションを流行らせたり、
周りの人に情け容赦ない変なあだ名をつけたり。
授業中ふざけ過ぎて、先生に
往復ビンタされた挙句、
教壇の両脇に置いた机で授業を受けさせられたりした。
現在の私からは想像も出来ない話だと思われるだろう。
(はいはい)
Mとは家がそこそこ近いという事もあり、よく遊んだ。
自転車でもあちこち出かけた。
MY自転車は、24インチのセミドロップハンドル。
色は黒以外に選択肢が無かった。
買った時は、
フラッシャーと機械式スピードメーター、
変速レバーはサドルの前方についているクソ重たい自転車
だったが、走り込むにつけ、だんだん飾り部品を外して
軽量化を図り、ツーリング仕様にしていった。
これは1975年、小学5年生の時の話。たぶん‥
ある日、Mが長崎県地図を持ってきて、自転車で
大村湾を一周しようと言う。
そんな面白そうな話、断る理由が無かろう!
無理かもしれないとは1寸たりとも思わない。
われわれに不可能という文字は読めなかった。
当日は、長崎市の諏訪神社を8時半ごろ出発。
もちろん何時間かかるかなど計算している訳がない。
九九は6の段までしか言えなかった。
大村湾一周は約130キロある。どれほどの上り坂や峠が
あるのかも、よく分かっていない。
地図の等高線は、キレイだなーと思っていた。
基本的に、ムリなら戻ればよかたーいと考える。
まったくの遠足気分でペダルを漕ぎだした。
当時から、ざみぎの金名は、「どげんかなるさ」だった。
新大工町から蛍茶屋を経て、日見峠へ登る。
もちろん日見バイパスはまだ無い。標高157mの
日見トンネルコース。
明治時代以前は、さらに上の旧道が主要交通路で、
西の箱根と呼ばれていたそうだ。
高くは無いが傾斜がきつい。今歩いても結構大変。
そんな日見峠を、5段ギャアでヘーコラ越える。
東長崎くらいまでは自転車で行った事があったが、
その先は見知らぬ土地であり、珍しいものが沢山
あるので、寄り道してなかなか先に進まない。
(これは現在でも同じ)
今はもう無くなった市布のヤクルト工場。
長崎の小学生は、社会科見学で大体行ったところ。
前をうろうろしたがヤクルトは恵んでもらえなかった。
久山町の地下道へ下りる坂では、下りた勢いで反対側の
坂を登るのが面白くて
「ィヤッホゥー!」と叫びながら
何度も遊び、貴重な時間と体力を激しく消耗した。

この坂は、今も存在している。
横島付近の線路脇では列車と併走し、浮かれて意味もなく
手を振るが、乗客は見ていなかった。
小船越あたりまで進んだと思うが、三浦の海岸道のほうが
景色がいいと聞いていたためか、少し戻ってそちらに向かう。
そのまま鈴田越えする方が楽なのに、わざわざ山道を行く。
この先の険しさも知らず、はしゃいでいた。
三浦の日泊で、早くも正午になったと記憶している。
超超超スローペース!残り100km以上あるのに‥
大村の町に到着。
さすが小学生。まだまだ元気だ。若いからなあ。しかし
少し疲れて来たのだろう。桜馬場あたりで並んで走って
よろけてもつれ、ふたり一緒にコケそうになる。
もう午後1時前後だったはず。おりこうさんな子どもなら
ここで戻るべきと判断しただろう。
だが残念な事に、我々は当時の漫画、自転車で日本一周
する「サイクル野郎」に多大な影響を受けていた。
なぜか、北端の西海橋で仲間が待っていて、感動の再会を
する設定になっていた。エア仲間で実際は存在しないのだが、
感動したいので戻るわけにはいかなかった。
要するにバカだった。
松原で海を眺め、さらに進む。海沿いのコースは気持ちがいい。
川棚を過ぎるとだんだん口数が減ってくる。
休憩も多くなる。
もう場所は判らないが、遠くに見える"ホテル太陽"の看板を
目標に進む。
「あすこに着いたら休憩」そう決めて、よたよた進む。
登っては下り、下っては登り、行けども行けどもホテル太陽の
看板に着かない。
やっと着いたら、距離感も狂う程の巨大な看板だった。
小さな長崎県地図と僅かな記憶を頼りに前に進む。
田んぼばかりの見知らぬ町。一人ではとても無理だったろう。
疲れてもふたりならまだ笑える。笑えば元気も出る。
針尾の峠を見上げて顔を見合わせたが、もう半分以上走っている。
このまま進む他なかった。
西海橋を渡る頃には陽も傾く。
エア仲間とも感動の再会を果たした(芝居をした)が、余裕が無いので
15秒で切り上げる。
「俺は一度だけお前をうたがった!俺を殴れー!」
今回の旅の行き先は、親にはシークレットで決行した。
大村湾を一周するなどと言えば、危なかけんダメー!と
止められるのは明らかだった。
まだバイオパークもオランダ村もない、淋しーい大村湾の西岸を
長崎市を目指して黙々と走る。
辺りは薄暗くなり、心細くなってくる。腹も減ってくる。
休憩で自転車を降りて歩くと、足がまだペダルを漕ぐような
回転運動をする。かなり漕ぎ続けたからだろう。
ハンドルを持つ格好をすれば、
エアぢてんしゃだ。
周りの人に可哀想な子だと思われる。
だんだん暗くなり始める。昔の自転車のライトはタイヤに
発電機のローラーをこすりつけるタイプのうす暗~い豆電球。
知らない道を、ぼや~んと頼りない灯りで走るのは危険だ。
もう何回目の休憩か判らない。どちらともなく言い出す。
「ヒッチハイクすうか?」「そがんすうでー(そうしよう)」
もうだいぶ疲れていた。
長距離を走るための知識もテクニックも無いふたり。
とにかく前に前に進むだけだった。
琴海あたりまで来ていたようだが、場所はよく判らない。
とにかく自転車を2台積めるトラックをつかまえる!
まず、同情を引くために猿芝居を打つことにした。
自転車の前輪をはずし、車軸が傷んでガタつくのを調整中
という中途半端なシナリオだ。
Mが自転車をよく見える角度で逆さにしてセッティング。
自分が前に立ち、手をあげてトラックを停める。
シカトされたら、地面に這いつくばり片腕を伸ばして宙を
つかみ、泣きマネする予定。
しかしトラックは通っても、なかなか停まってはくれない。
両手をあげて必死な顔で駆け寄るので、反射的に逃げるの
だろうか。
その内、一台の軽トラが、だいぶ通りすぎてから止まった。
乞食のように駆け寄り、ウソっぱちの事情を説明すると、
親切なおじさんは、「仕事の荷物ば積んどるけん、家に
降ろしてから送ってやる。ついて来んね」
慌てて自転車の前輪を取り付け、軽トラの後につく。
おじさんは、いきなり
普通に加速した。
「わ~~◎%▽*∈ン#~!!」と叫びながら
必死で追うふたり。
本日の最高速と自己ベストを叩き出す。
とても車軸が故障しているとは思えない速度だった。
あっそうか!という感じで軽トラは減速して待ってくれた。
そのままチギられるかと思ったため、
絶望でふたりの目と
股間は少し潤んでいた。
おじさんは塗装屋さんのようで、脇道をグリグリ入った
奥の石垣の上に、自宅(兼作業場?)があった。
軽トラで入口の急坂を登る。二人は下で待つ。
やがておじさんが降りてきて自転車を荷台に積み、小学生
二人を助手席に乗せて、残照の中を軽やかに出発した。
帰れるんだ‥ これで。
少なくとも110km以上は走っていた。
明るければ、あと20キロ何とか走って帰れただろうが、
もうこれで充分だった。
リタイヤはしたが、楽しかった。次はちゃんと一周して
リベンジしてやるぜ!と大魔王サターンに誓った。
疲れておとなしくしていると、おじさんは家から持ってきた
パックの助六寿司を食べろと言う。
ありがたくもらった。嬉しくて、ほっとして、涙が出そうだった。
と思ったら、Mの鼻をすする音が聞こえた。お稲荷さんを
食べながら、腕でめがねを上げて目をこすっていた。
ありがたい事に、家のすぐ近くまで送ってもらい、何度もお礼を
言って軽トラを見送った。
Mの家はもう少し先なので、ひとりだけ降りた。
もうすっかり夜になり、空には星が瞬いている。
きょうの事がまるで夢だったかのように、静かな夜だった。
この後、セブンスター(軽トラに乗っていた)の3箱も買って
おじさんの所にお礼に行こうと、ずっと思っていたのだが、
場所が特定できず、名前の記憶も怪しくなり、とうとう
行かず仕舞いになった。
子どもだったとはいえ、不義理なことをしてしまった。
Mとは、高校生になってからは連絡を取っておらず、どこに
居るのかも判らない。生きていれば私と同い年だろう。
(ころすなよ)
オトナになり、自転車乗りに復帰して、2011年の12月4日、
三十数年かけて、ようやく大村湾一周リベンジを果たした。
長い道のりだったが、長井道則では無かった。(意味不明)

アラヤ フェデラル ブルホーン+サブハンドルVer.2.13 西海橋にて
実はこの前の週に一度決行したのだが、川棚でパンクして
早岐(はいき)まで10キロ押して歩き、時間が無くなって
やむなく諫早に戻った。(以前の記事あり)

ムカついたので次の週に再挑戦した。
今でもグールグルのマップを見ては、おじさんの家を探しに
行ってみるのだが、あまりに時間が経ち過ぎて、まだ
見つける事が出来ない‥。
そして‥ 今度はおじさんになった自分が、路上で困って
いる小学生がいたら助けなければいけないと思っている。
声をかけられても不審者通報しないように!

最後までのお付き合いありがとうございMAX
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