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真冬もOK!ジャイロキャノピー ~原チャリ風雲録~

原チャリ風雲録
06 /03 2023

 ホンダというメーカーは、創業以来、世界をリードする高い技術力により、いつも先進的で独創的な製品を作り続けてきた。

 挙げればキリがないし面倒なので挙げないが、50cc、原付1種の3輪スクーター「ジャイロキャノピー」もそのひとつ。

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 自分はこれの中古に10年くらい乗っていたのだが、別に自慢する事もないし、特に面白い事もないので、紹介する記事は書いていなかった。

 ただ、若い頃乗っていた原付たちの昔話は以前すべて書いたので、キャノピーのことも思い出しつつ記録しておこう。 

 

 ジャイロキャノピーは、3輪で安定性が高く、荷物がたくさん積める。風防(キャノピー)と屋根があるため、冷たい風を防げて雨にも(さほど)濡れない。配達用として最強の原チャリと言えるだろう。

 無論これは、1980年代の原付バイク黄金時代にホンダが開発した、ロードフォックスやストリームなど、世界初の後輪スイング式3輪スクーター、通称スリーター」の進化形だ。「フリーター」では無い。スリーターは安定しているが、フリーターは安定していない。(うまいこと言ったつもりか?)


 現在もピザなどの配達業務に重宝されているバイクだが、新車は原チャリのくせに現在57万円くらいするので、お金持ちの子にしか買えない。(いや、お金持ちの子はこれは買わんぞ)


 ちなみに、これまで法人向け販売のみだった電動のジャイロキャノピーe」が10月から一般向けに販売開始されるそうだ。法人向けで価格が70万円以と目ん玉が飛び出しそうだったのに、個人向けは、ナーント!100万1000円になるらしい。

 目ん玉が発射してアメリカ大陸へ飛び、マンハッタンの景色が見えそうだ。(しょうもない事言わんと進めんかい!)

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 それにしても、一体誰が買うんだろうか・・ 



 西暦2005年、まだ自分は自転車散歩や自転車いじりの趣味に目覚める前だった。ホームセンターで、ヘクササイズ目的で買ったマウンテンバイク風自転車はあったが、もっと気軽に買い物やお出かけに使える、楽ちんな乗り物を探していた。


 そこで、安ーい中国製の変速なし電動アシスト自転車を買ってみたが、取り回しが悪く、ゴキュ~ンゴキュ~ンと変なリズムで進み、長崎の激坂では、場合によっては普通の自転車よりも大変で、ヘロヘロになった。


 そしてネットで見つけたのが、「ホンダの3輪ジャイロシリーズをミニカー登録すれば、時速30キロ制限も二段階右折もなしで走れる」という夢のような情報!


 うん、こはよきかな!ジャイロシリーズには、ジャイロXやジャイロUPもあるが、やっぱり風防と屋根のあるキャノピーが面白かろう。

 ※ミニカーという乗り物の定義は、3輪以上で、原動機の総排気量が21~50cc、左右のタイヤ中心間の距離(輪距)が50cm以上、または車室があるもの。茶室ではダメだ。(はいはい)


 ヤフオクで何度も競り負け、やっと走行2万キロ超えのジャイロキャノピーを手に入れた。岡山からの出品で、送料を含め相場よりけっこう安く買えた。

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 キャノピーとの新しい生活が始まった。中国電アシ自転車は、人にくれてやった。


 後輪の輪距を広げるためのスペーサーをネットで買って、簡単な改造申請書を書き、市役所でミニカー登録。車両の写真なしでトライしたので、却下されないかと心配したが、すんなり終わった。役所は税金さえ入ればOKなのだろう。


 比較的パワーのある2ストロークエンジンだったが、車体が重たいしノーマルなので、加速はトロく、コンディションの問題もあってか、やっとこさ時速53km/hしか出なかった。

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 まずはバイク屋さんに頼んで、ベストの状態に整備してもらい、その後はネットの原付改造ブログなどで情報を得て、自分で整備と改造をするようになった。

 お世話になったバイク屋さんは、今は移転して敷居の高いカッコいいバイク専門店になっている。


 ミニカーにはヘルメット着用義務がないので、最初は、ヒャッホー!プップルップ〜!と喜んだものだが、ノーヘルだと「道路に落としたスイカがパックリ割れる映像」が頭に浮かんで落ちつかないので、自分はすぐ被るようになった。


 当時はまだ田舎にミニカーは少なく、ノーヘルでご近所デビューした最初の日、さっそく初老の警官に普通の原付と思われ、止められた。

 「貴様!ヘルメットはどうした!逮捕する!」ダーンダーン!みたいな勢いだったが、若い方の警官がミニカー登録だと言うと、急に態度が変わり、すまんやったね~、行ってよかよ~と笑顔で見送られた。


 警官は、法を守ってさえいれば、それ以上口出しするなと言われているのだろうか。「追突される恐れもあるからヘルメットは着けた方がいいよ」くらいは指導として言っても悪くはなかろう。今はどうなのだろうか。



 バイクには、メーカーが車種ごとに作成した、バイク屋向けのサービスマニュアル(整備要領書)とパーツリストがある。

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 これを一般市民もネットで買えると聞いていたので、即購入した。間違えて下着泥棒のパンツリストを購入しないよう気をつけたのは言うまでもない。(もう歳なんだから、そろそろ落ち着こうぜ)


 これらとバイク改造ブログの情報があれば、9割方はなんとかなる。(個人差があります) 夜は焼酎を飲みながら構造と分解手順を研究し、昼は車体をいじくりまわした。

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 ヤフオクで改造部品の出品者だった同じ趣味の人からも、いろんなノウハウを教えてもらった。バイク屋の大将も、メンテについて詳しく教えてくれた。

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 エンジンのシリンダーポートを削ってみたり、キャブレターをセッティングしたりオーバーホールしたり。特殊工具も安い物をネットで探し、作れるものは作った。

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 40過ぎのおっさんが、初めての体験ばかり。歳をとって始めた新しい趣味に、17歳の原チャリ小僧のように夢中になっていた。


 若い頃は、原付は「乗る専門」だったので、整備と言ってもオイルの補充やバッテリーと電球の交換くらい。それ以上は素人ができるとは思っていなかった。


 歳を重ねて原付に乗る機会がなくなり、クルマだけの生活が長い間続いた。バイクに乗りたいと思うこともなくなっていた。それがどういう訳か、いい歳をして原付3輪ミニカーいじりにハマるとは。人生は解らないもんだ。



 自分が自転車のブログを始めた理由のひとつとして、この時、顔も知らないバイク好きの人たちに世話になったので、自分も出来ることがあれば発信しようという思いがあった。

 ただ、最近の自転車記事への反応を見ると、もう自分は誰にも必要なさそうだ。ふん、どうせ老害とか言われているのだろう。(イジけてやんの)



 ある年の暮れには、車体をホネホネの状態にバラし、サビて腐食した所が無いか、電線が切れそうな所がないか調べた。

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 いろんな構造の工夫や機械工作の精度を見て、改めて日本メーカーの技術力に感心した。


 タンクの上の部分がサビて汚れてみっともなかったので、サンドペーパーで磨いて、エポキシ塗料を塗った。

 今ならそんな面倒な事はしない。セルフ給油なので誰もタンクなど見ないから。

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 変速のタイミングを確認するため、電気式のタコメーターも買った。スピードメーターの横が空いていたので、穴をあけて埋め込んだ。本当は、カッコよさそうなので着けたいだけだった。

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 朝の通勤では時間が気になるので、100均の時計を名刺入れに入れて貼り付けた。どうやって防水しようかと考え、面倒くさくなってマスキングテープで周囲を巻いた。


 足元に純正の大型バスケットも取り付けた。ちょっとした買い物に重宝した。ただ、カラのペットボトルを立てていると、交差点の真ん中で強風で飛ばされて恥ずかしいので注意しなければならない。

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 中の小さいカゴは100均。灰皿があるので、この頃はまだタバコを吸っていたようだ。


 風防のお陰で、雪のふる真冬でも「アレ?」というほど寒くはなく、涙と鼻水が水平に流れる事もなかった。「走るかまくら」と名付けた。

 真夏は屋根で日差しを避けられた。しかし、走っても顔や首まわりに風が当たらず蒸し暑いので、横から頭をにゅっと出して風を受けた。「走るひょっこりはん」と名付けた。


 ノーマルの後タイヤは小さくてショボいので、大径で幅が広いアルミホイールセットのものに取り替えた。車幅が広がりすぎるので、スペーサーは薄いものにして渋滞時にすり抜けができるようにした。

 ちょっとカッコよくなり、最高速も上がった。

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 改造もひとしきり納得ゆくまでやったが、末長く乗りたかったのでソコソコのところで止めた。平地では交通の流れに乗れてスピードも出たが、トルクを犠牲にしていたので、キツい登りはバイクも人間も重すぎて、30キロ出なかった。


 重くて坂を登らないのもあるが、なぜかあまり原付で遠出をする気にはならなかった。60キロで巡航できると言っても、エンジン全開なので余裕がなくぶっ壊れそうでハラハラして楽しめない。


 遠くへは滅多に行かなかったので、お出かけ写真はほとんど無い。


 だいたい、コレを人様に見せようとか、自慢しようとかいう発想はなく、あくまでも便利な通勤と買い物のアシであり、機械いじりの教材だった。


 遠出と言えば、まだ改造する前に多良岳に行った事があった。天気がよかったのでちょっと走ってみるかと思い立ち、行き先を決めず東へ向かった。

 幹線道路はあまり走りたくないので、アップダウンが激しい多良岳レインボーロードという農道を走り、高来町まで。寂しい山の中の単調な景色であまり面白くない道だが、時々遠くの景色も見える。


 いこいの村長崎の方へ登ったら、以前、軽四駆でよく多良岳周辺を走っていた事を思い出し、その場で多良岳へ行くことに決めた。金泉寺登山口から多良岳山頂までは、歩いて1時間もかからなかったはず。

 そんな軽い気持ちでつづら折りの裏道を登りはじめたのだが、金泉寺登山口は、標高724mの所にある。途中、空冷エンジンと駆動部が熱でダレて20キロも出なくなり、急坂ではついに10キロを切った。ぶぶぅうぅうぅう・・・

 仕方ないので、足で地面を蹴って進んだ。「人間アシスト原付自転車」と名付けた。

足を大きく動かすと、後ろのタイヤにかかとを踏まれて靴が脱げ、靴が轢かれた。


 時々バイクのために休憩してエンジンの熱を冷まし、また出発する。これを繰り返して、やっとこさ登山口に着き、キャノピーを放置して山に登った。

 バイクが意思を持っていたら、虐待で訴えられるレベルだった。



 キャノピーに乗り始めて5年ほど経った頃、ネットで昔のランドナー風自転車が低価格で販売されている事を知って飛びつき、自転車生活が始まった。

 自転車で散歩する面白さにも気づき、折り畳み自転車で近所をうろつきまわるようになり、通勤も買い物も、できる限り自転車を使っていた。

 そして、原付よりも、はるかに遠くまで出かけるようになってゆく。


 キャノピーの出動は、時間がない時、荷物が多い時、自転車では凍える冬の寒い時期や、通勤で朝から汗をかきたくない時などに限定された。


 それでも動かなくならないよう、週に数回はエンジンをかけてご近所パトロールしていたが、ある土曜日、路地から通りに出たところで、坂を勢いよく下ってきた軽自動車とパーン!と接触し、ポテッとコケ、フロントフォークがくにゃんと曲がってしまった。


 ちゃんと確認したつもりだったが、クルマの接近に気づかず、アクセルを回した瞬間に眼の前にいた。お星さまになってみんなを見守ろうと思ったが、あいにくまだ生きていた。


 家までは、傾きながらなんとかヨレヨレ自走できたものの、キャノピーはそれから長いこと軒下の物置きとなる。ミラーにぞうきんを干されたりしてかわいそうだった。


 自分はというと、コケた時に右足のつま先をフロアステップにびっしゃがれて痛めたのだが、それで済んで幸いだった。ただ、確認はしっかりする方だと思っていたので、ちょっと運転に自信がなくなった。歳のせいか、痴呆の前触れか。

※注:(長崎弁)びっしゃがれる→ぶっ潰される 


 キャノピーは、普段あまり乗らなくなったので、修理するか売っぱらうか迷っているうちに半年が過ぎ、一年が過ぎた。そして、また別の件で今度は左足のふくらはぎの靭帯を損傷し、しばらくは自転車やバイクどころではなくなってしまった。


 それからまた時が経ち、後輩が「修理して乗りたいから売ってほしい」と言ってきたので、予備のパーツや専用工具、マニュアル一式付きでくれてやった。

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 かわいがってもらえる家にお嫁に行ったほうが、バイクも幸せだろう。新しい水色のナンバーがつけられたキャノピーは、フロントフォークを交換して、元気に走っているようだ。


 3輪ミニカーのキャノピーで過ごした日々の記録は、これでおしまい。


 原稿用紙で2ページくらいで終わるかと思ったが、また長々と書いてしまった。

 振り返ってみれば、楽しく有意義な時間をくれたバイクだった。この時に得た整備の知識は、今でも役に立っている。ホンダ技研工業に感謝感謝!




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悲しきオブジェ ホンダ ストリーム50

原チャリ風雲録
10 /23 2013
CB50が消えて幾年月、クルマの部品を探しに解体屋へ行った時、
赤のホンダ ストリーム50があった。

ホンダ独自の技術で開発した3輪スクーターだ。
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クルマのストリームではない。タイヤの数が違う。
ホンダは、ネタ切れなのか名前の使い回しが結構多い。
現在のFITが米国ではJAZZだ。

この3輪の乗り物を初めて見た時は、後頭部を鈍器で殴られた
ような衝撃だった。正座もしていないのにシビレた。
まさにニッポン、未来、乗りものだった。

発売当時は別の原付に乗っていたので買うことは無かったが
ずっと乗ってみたかったバイクだ。


大きなキズもなくボディーもつやがありまだキレイだった。
エンジンはかからないが、キーも書類もあると言う。

レストアする技術も工具も無かったが、財布に金は入っている。

毎度おなじみ、どげんかなるさ攻撃が出た。

ストリームはその場で何千円かで引き取った。
友達と来ていたのでクルマを運転させ、家まで3kmほど押していった。

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未来の乗り物は、庭の一角のCB50を置いていた場所に鎮座した。
来週にでもバイク屋に頼んでどうにかして貰うつもりだ。

忙しく一週間が経ち、二週間が経った。
両親がしびれを切らして、どうするつもりかと聞く。
CB50の時も長いこと放置していたので、悪夢の再来だったのだろう。
ストリームは、雨ざらしでいい感じにオブジェの風格が出てきた。

そして季節は移ろいゆき、寒くてスクーターなどさわれなくなる。

「乗らんとなら邪魔かけん捨てるけんね!」「へ~い」

結局一度もエンジンがかかる事なく、飾りのまま回収業者の
トラックに載せられていった。ドナドナを唄う暇も無かった。

やった事といえば、キャブレターを開けた事くらいだった。
普通のスクーターと構造が違うので、面倒になったのだと思う。

走行距離ゼロ! 期待させておいて、完全に忘れられる。
そのまま解体されていた方が幸せだったのかもしれない。

今回もまた、持ち腐れ作戦が炸裂だ。

ストリームのプラモデルは持っているのでいつか作ろう。
これも持ち腐れか。

ある意味完璧。 ホンダ CB50

原チャリ風雲録
10 /20 2013
1986年頃‥たぶん。

都落ちで長崎へ戻ってきた時期。もうここで暮らすと決めた。

当時、諫早では自分が出来そうな仕事が少なかったので、
長崎市内にアパートを借りて、バイトしながら就職活動をした。

長崎市は山ばかりで平地が少ない為か、駐車場台がバカに高かった。
砂利や土の所でも諫早の倍くらい、一万円以上はとられた。

クルマは実家に置いて、便利のいいバイクを買うことにした。

長崎市のバイク屋に、ホンダCB50の中古車があった。

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見た瞬間、これだと思った。なぜかはよく判らない。
大体は、見た目のデザインと勘で選ぶほうだ。

バイクの原点、王道、基本、そんな感じだった。当時でもちょっと
レトロな感じがした。それと、ホンダJAZZで体験した4ストの乗り味。
これでいい、これで充分、いや、この落ち着いた所がいい。
こんな感じだったろうと思う。

長崎の町は、バイクで移動するのがベストだった。雨の日は路面電車がある。
路地の奥の階段の下に停めていた。アパートは階段の上だった。

この頃は、バイクのヘルメット着用が義務化されていたと思う。
初めは面倒だったが、使ってみると安心感があった。でも、夏場は御免だった。


さて、CB50はどんなバイクだったか。

4ストの原付にしてはストレスもなく、よく走った。
って言うか、確かにスポーツ車だったと思う。本気を出せば結構速かった。

でもRZ50のような狂気的な感じでは無く、普段は至ってオトナだった。

今にして思えば、エンジンサウンドも乗り方に影響するのかと思う。
2ストのギャーーンという狂犬の叫びは、速く走る事を強要するようだった。
4ストでも結構回転は上がったと思うが、理性を忘れるような音ではなかった。

低速ではブレーキで後輪がすぐロックした。これを利用して、
曲り角をテールスライドして直角に曲がって遊んでいた。
タイヤの真ん中だけがすり減った。

諫早の山のほうに、トレールバイクで遊べるような所があった。
オフロード遊びに興味を感じていた私は、無謀にもCB50で突っ込んで行き、
コケそうになりながら遊んでいた。DT50かハスラーが欲しかったが、
哀しいことに充分足が届きそうな気がしなかった。

バイトが休みの日は、標高250mの山を越えて諫早の実家に帰った。
溜まった洗濯物もどうにかして持って帰っていた。

スクーターよりもギヤ付きの方が思い通りに走れて面白かった。
これはクルマでも同じで、ひとつ前のクルマまでは、ほぼマニュアル車
に乗っていた。オートマなんて人間じゃないと思っていた。

バイトが無い日は職安(現在のハローワーク)へ行き、いい仕事がないと、
もうその日はすることが無かった。

松山町の陸上競技場に行き、芝生の観客席に寝転んで空を見上げた。
蒼い空を白い雲が、形を変えながらゆっくりと流れていった。

昼食の菓子パンを鳩と分けあって食べた。
鳩は「ポップルー」と言って喜んだ。
恩返しは、まだ無い。

不安よりも、田舎で穏やかに過ぎていく時間を楽しんでいた。
基本は、「どげんかなるさ」
モラトリアムな日々だった。


しかし、長く続けたい仕事はなかなか見つからず、バイトの期限も過ぎ、
一年も経たないうちにアパートを引き払って実家に戻ることになった。

とりあえずの仕事に就いた。人とのつきあいが増えるとクルマがメインに
なる。そうなるとCB50の出番は減る。

古い原付は、乗らないでいるとなかなかエンジンがかからなくなる。
かからないのでクルマで出勤する。そのうちバッテリーも上がる。
もう乗らなくなる。

CB50は実家の庭のオブジェとなり、邪魔者となり、最後はゴミとなった。

今ならどうにでも出来るのだが、当時は原付の整備の知識も少なかった。
これまで、もったいないオバケが何匹出たかわからない。

事あるごとに思う。「雨があたらない広いガレージがあればなあ!」と。
そうすれば、何かを捨ててしまって後悔する事もない。今なら大抵の
ものは直せる。自分が要らなくてもヤフオクで売ればケッコウな金額に
なるものも捨ててきた。

貧乏人が貧乏人のままである理由が、少し解ったような気がする。

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ホンダ CB50。 一目惚れで買ったバイクらしいバイク。
ロングセラーだったが、今売っていても全然おかしくないと思う。

原価が高すぎて、とんでもない価格になるのだろう。

本当に、現在の原付ラインナップは淋しい限りだ。
欲しいと思う50ccバイクは、

無い‥。



短足OK!! ホンダ JAZZ 50

原チャリ風雲録
10 /16 2013
ホンダ JAZZ 50 むかぁし大流行したワインレッド 
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第2期大阪時代に、仕事で銀行へ両替に行くために買った。
(なにその理由)

表向きはそうだったのだが、単純に乗りたかっただけだろう。

若い頃から何故かカントリーミュージックを好み、アメリカ大陸を
貨物列車に無賃乗車して流れてゆくHOBO達に共感した私としては、
アメリカンなJAZZのスタイルは、今でも好きなデザインだ。

この頃はもうクルマに乗っていたので、原付を買う理由としては、
クルマでは望めない機動性か、趣味的な使い方しか考えられない。

バカッ速の2ストでなく、カブのエンジンを積んだ4ストだと
いうところがいい感じだ。ちょっとオトナになったのかも。

値段は高かった!でも買った。なぜ無理して買ったのかといえば、
な~んも考えていなかったからだ。(断定)

今まで乗ったバイクと違い、ギヤ付きの4ストでバロロロロロと
ふんぞり返って走るのは新鮮だった。

遠出はあまりしなかったが、仕事場に置いていたので休みの日は
わざわざクルマで取りに行って、近場をあちこち走ったりしていた。

今考えると、結構バイクが好きだったんだろうなと思う。

SOUTHERN DREAMER SPECIAL と、雰囲気だけのサブネームをつけた。
わざわざカッティングシートでロゴを自作してバッテリーBOXに
貼り付けた。

行きつけの喫茶店のマスターにロゴを見せたら、残念そうな顔をした。
正直で有名な人だった。


現在、どこかで売られている奇跡の車体。
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でも、ここの暮らしも長くは続かなかった。基礎が固まらない内に
いろいろと手を広げた会社は、だんだん資金繰りが難しくなり、
やがて解散となった。

世話になった社長一家は、連絡もつかない所へ行くことになり、
みんなでお別れの食事会をして別れた。

倒産時のゴタゴタで気持ちに余裕がなく、長崎へ送ればいいものを、
JAZZは二束三文でバイク屋に引き取らせた。
買ってから一年経っていたかどうかも判らない。
売値の半値ちかくだった気もするが、それ以下だったかもしれない。

短い付き合いだった。縁が薄かったといえばそれまでのことだが、
JAZZの体験が次のバイクの購入に繋がったとも思える。

この時代の原付は多種多様で、見るだけでもワクワクした。
今の若い人は、あれこれ選べない。見ても楽しそうなものは無い。

売れないから作らないのか、作らないから売れないのか?
私にはよくわからないが、メーカーも夢を忘れないでほしいな。

元気印(死語!) ヤマハ初期型JOG

原チャリ風雲録
10 /12 2013
初期型 ヤマハ JOG
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大阪から長崎へ戻って来て、近所のバイク屋で普段の足用に買った。
いろいろあって、まだクルマの免許も取っていなかった。
細かい事は考えずに、安いのを買ったような気がする。

ベルーガとはまるで違って、めっちゃパワフルに走った。
元気が良すぎるくらいだった。

走りだす時は、頼みもしないのにウイリーした。

走りながらアクセルをあおって体重移動すると、フロントがポンポン
跳ね上がった。「復讐の舞い」と名づけた。特に意味は無かった。

下り坂の交差点を右折しようとしたら、雨上がりで路面が濡れていた
ため、タイヤが滑った。立て直そうとしたが、そのまま交差点の
カド目がけてツーッと滑っていった。

自分は転ぶ寸前に惰性で起き上がってバイクの後を追いかけ、交差点の
カドに突っ込んだバイクを起こして何事もなかったように走り去った。

高校生が20人くらい見ていた。「おぉ~っ!」という声があがった。

わー!と言いながら地ベタをゴロゴロ転がらなくて良かった。

私のはこの色。白とグレーの2トーンだった。
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山も軽々登った。諫早の五家原岳は、1057mの頂上まで狭くて急な
坂道をクルマで登れる。
JOGは空冷エンジンだが全くダレたりする事なく、一気に登りきった。

雲仙の温泉街に友達を訪ねて行った時も、楽々と登った。

必要にして充分な動力性能だった。
グリップのいいタイヤさえついていれば敵なしだっただろう。

とにかく、よく走るバイクだった。
車体が軽いと走りがよくなるという事が体感できた。

最高速テストをした事があったが、メーターを振り切りまくっていて
判らなかったのではなかったかと思う。

スタートでクルマを引き離せたので、あまり飛ばす必要はなかった。


音楽を聴こうと思い、ソニーの電池式防滴スピーカーを買ってきて、
自作ステーでハンドルに取り付けた。

こんな感じのだったと思うのだが、これは18,000円もする。
防滴とも書かれていない。たぶん似たものがあったのだろう。
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覚えているのは、買うときに高けえなーと思って、買おうか
買うまいかと悩み、店の中で10往復くらいした事。
やはりこれを買ったのだろうか?まさか‥

取付はDIYで、たぶんミラーと共締めしたような気がするが、
しっかり固定されて全然問題なかった。

当時、何故そんな事が出来たのだろう?と不思議に思う。

ウォークマン2をつないで聴いていた。
まだカセットテープの時代だった。
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↑左側のは、はんごうでは無く、予備電池BOX。さすがにこんな
  重装備はしなかった。

そんな事をしている原付バイクはいなかったので、「よさ~よさ~
(いいな~いいな~)」と人に羨ましがられた。
もちろん、「くれ~ん(あげな~い)」と答えた。

防水ではなく防滴仕様だったので、雨がひどくなると、スピーカーに
Aコープの買い物袋を被せた。長崎にはコンビニはまだ少なかった。


その頃はバイトをしながら仕事を探していたのだが、大阪で世話になった
人が自分の会社を起こす事になり、数ヶ月の予定で手伝いに行った。

また大阪に舞い戻る。あまり真剣に将来の事を考えてなかったのだろう。

結局手伝いが長引き、長崎からJOGを送ってもらった。
大阪の街を、諫早ナンバーで走り回っていた。
(そうだった思い出した。懐かしいなあ)
「ネリハヤ」とか読まれたりしていた。

クルマで移動するようになってからは出番が減った。
アシのない友だちに貸していたが、最後は安くで譲った。

今思うと、金もないくせに結構勿体ない事をしている。
昔から、どげんかなるさ攻撃を多用していたようだ。

Ramblingbird

長崎南部の自転車散歩やどうでもいい出来事を、小学生ギャグを交えて書き散らします。お下劣な表現を含みますのでご注意下さい。