真冬もOK!ジャイロキャノピー ~原チャリ風雲録~
原チャリ風雲録ホンダというメーカーは、創業以来、世界をリードする高い技術力により、いつも先進的で独創的な製品を作り続けてきた。
挙げればキリがないし面倒なので挙げないが、50cc、原付1種の3輪スクーター「ジャイロキャノピー」もそのひとつ。
自分はこれの中古に10年くらい乗っていたのだが、別に自慢する事もないし、特に面白い事もないので、紹介する記事は書いていなかった。
ただ、若い頃乗っていた原付たちの昔話は以前すべて書いたので、キャノピーのことも思い出しつつ記録しておこう。
ジャイロキャノピーは、3輪で安定性が高く、荷物がたくさん積める。風防(キャノピー)と屋根があるため、冷たい風を防げて雨にも(さほど)濡れない。配達用として最強の原チャリと言えるだろう。
無論これは、1980年代の原付バイク黄金時代にホンダが開発した、ロードフォックスやストリームなど、世界初の後輪スイング式3輪スクーター、通称「スリーター」の進化形だ。「フリーター」では無い。スリーターは安定しているが、フリーターは安定していない。(うまいこと言ったつもりか?)
現在もピザなどの配達業務に重宝されているバイクだが、新車は原チャリのくせに現在57万円くらいするので、お金持ちの子にしか買えない。(いや、お金持ちの子はこれは買わんぞ)
ちなみに、これまで法人向け販売のみだった電動の「ジャイロキャノピーe」が10月から一般向けに販売開始されるそうだ。法人向けで価格が70万円以上と目ん玉が飛び出しそうだったのに、個人向けは、ナーント!100万1000円になるらしい。
目ん玉が発射してアメリカ大陸へ飛び、マンハッタンの景色が見えそうだ。(しょうもない事言わんと進めんかい!)
それにしても、一体誰が買うんだろうか・・
西暦2005年、まだ自分は自転車散歩や自転車いじりの趣味に目覚める前だった。ホームセンターで、ヘクササイズ目的で買ったマウンテンバイク風自転車はあったが、もっと気軽に買い物やお出かけに使える、楽ちんな乗り物を探していた。
そこで、安ーい中国製の変速なし電動アシスト自転車を買ってみたが、取り回しが悪く、ゴキュ~ンゴキュ~ンと変なリズムで進み、長崎の激坂では、場合によっては普通の自転車よりも大変で、ヘロヘロになった。
そしてネットで見つけたのが、「ホンダの3輪ジャイロシリーズをミニカー登録すれば、時速30キロ制限も二段階右折もなしで走れる」という夢のような情報!
うん、こはよきかな!ジャイロシリーズには、ジャイロXやジャイロUPもあるが、やっぱり風防と屋根のあるキャノピーが面白かろう。
※ミニカーという乗り物の定義は、3輪以上で、原動機の総排気量が21~50cc、左右のタイヤ中心間の距離(輪距)が50cm以上、または車室があるもの。茶室ではダメだ。(はいはい)
ヤフオクで何度も競り負け、やっと走行2万キロ超えのジャイロキャノピーを手に入れた。岡山からの出品で、送料を含め相場よりけっこう安く買えた。

キャノピーとの新しい生活が始まった。中国電アシ自転車は、人にくれてやった。
後輪の輪距を広げるためのスペーサーをネットで買って、簡単な改造申請書を書き、市役所でミニカー登録。車両の写真なしでトライしたので、却下されないかと心配したが、すんなり終わった。役所は税金さえ入ればOKなのだろう。
比較的パワーのある2ストロークエンジンだったが、車体が重たいしノーマルなので、加速はトロく、コンディションの問題もあってか、やっとこさ時速53km/hしか出なかった。
まずはバイク屋さんに頼んで、ベストの状態に整備してもらい、その後はネットの原付改造ブログなどで情報を得て、自分で整備と改造をするようになった。
お世話になったバイク屋さんは、今は移転して敷居の高いカッコいいバイク専門店になっている。
ミニカーにはヘルメット着用義務がないので、最初は、ヒャッホー!プップルップ〜!と喜んだものだが、ノーヘルだと「道路に落としたスイカがパックリ割れる映像」が頭に浮かんで落ちつかないので、自分はすぐ被るようになった。
当時はまだ田舎にミニカーは少なく、ノーヘルでご近所デビューした最初の日、さっそく初老の警官に普通の原付と思われ、止められた。
「貴様!ヘルメットはどうした!逮捕する!」ダーンダーン!みたいな勢いだったが、若い方の警官がミニカー登録だと言うと、急に態度が変わり、すまんやったね~、行ってよかよ~と笑顔で見送られた。
警官は、法を守ってさえいれば、それ以上口出しするなと言われているのだろうか。「追突される恐れもあるからヘルメットは着けた方がいいよ」くらいは指導として言っても悪くはなかろう。今はどうなのだろうか。
バイクには、メーカーが車種ごとに作成した、バイク屋向けのサービスマニュアル(整備要領書)とパーツリストがある。
これを一般市民もネットで買えると聞いていたので、即購入した。間違えて下着泥棒のパンツリストを購入しないよう気をつけたのは言うまでもない。(もう歳なんだから、そろそろ落ち着こうぜ)
これらとバイク改造ブログの情報があれば、9割方はなんとかなる。(個人差があります) 夜は焼酎を飲みながら構造と分解手順を研究し、昼は車体をいじくりまわした。

ヤフオクで改造部品の出品者だった同じ趣味の人からも、いろんなノウハウを教えてもらった。バイク屋の大将も、メンテについて詳しく教えてくれた。

エンジンのシリンダーポートを削ってみたり、キャブレターをセッティングしたりオーバーホールしたり。特殊工具も安い物をネットで探し、作れるものは作った。

40過ぎのおっさんが、初めての体験ばかり。歳をとって始めた新しい趣味に、17歳の原チャリ小僧のように夢中になっていた。
若い頃は、原付は「乗る専門」だったので、整備と言ってもオイルの補充やバッテリーと電球の交換くらい。それ以上は素人ができるとは思っていなかった。
歳を重ねて原付に乗る機会がなくなり、クルマだけの生活が長い間続いた。バイクに乗りたいと思うこともなくなっていた。それがどういう訳か、いい歳をして原付3輪ミニカーいじりにハマるとは。人生は解らないもんだ。
自分が自転車のブログを始めた理由のひとつとして、この時、顔も知らないバイク好きの人たちに世話になったので、自分も出来ることがあれば発信しようという思いがあった。
ただ、最近の自転車記事への反応を見ると、もう自分は誰にも必要なさそうだ。ふん、どうせ老害とか言われているのだろう。(イジけてやんの)
ある年の暮れには、車体をホネホネの状態にバラし、サビて腐食した所が無いか、電線が切れそうな所がないか調べた。
いろんな構造の工夫や機械工作の精度を見て、改めて日本メーカーの技術力に感心した。
タンクの上の部分がサビて汚れてみっともなかったので、サンドペーパーで磨いて、エポキシ塗料を塗った。
今ならそんな面倒な事はしない。セルフ給油なので誰もタンクなど見ないから。
変速のタイミングを確認するため、電気式のタコメーターも買った。スピードメーターの横が空いていたので、穴をあけて埋め込んだ。本当は、カッコよさそうなので着けたいだけだった。
朝の通勤では時間が気になるので、100均の時計を名刺入れに入れて貼り付けた。どうやって防水しようかと考え、面倒くさくなってマスキングテープで周囲を巻いた。
足元に純正の大型バスケットも取り付けた。ちょっとした買い物に重宝した。ただ、カラのペットボトルを立てていると、交差点の真ん中で強風で飛ばされて恥ずかしいので注意しなければならない。
中の小さいカゴは100均。灰皿があるので、この頃はまだタバコを吸っていたようだ。
風防のお陰で、雪のふる真冬でも「アレ?」というほど寒くはなく、涙と鼻水が水平に流れる事もなかった。「走るかまくら」と名付けた。
真夏は屋根で日差しを避けられた。しかし、走っても顔や首まわりに風が当たらず蒸し暑いので、横から頭をにゅっと出して風を受けた。「走るひょっこりはん」と名付けた。
ノーマルの後タイヤは小さくてショボいので、大径で幅が広いアルミホイールセットのものに取り替えた。車幅が広がりすぎるので、スペーサーは薄いものにして渋滞時にすり抜けができるようにした。
ちょっとカッコよくなり、最高速も上がった。

改造もひとしきり納得ゆくまでやったが、末長く乗りたかったのでソコソコのところで止めた。平地では交通の流れに乗れてスピードも出たが、トルクを犠牲にしていたので、キツい登りはバイクも人間も重すぎて、30キロ出なかった。
重くて坂を登らないのもあるが、なぜかあまり原付で遠出をする気にはならなかった。60キロで巡航できると言っても、エンジン全開なので余裕がなくぶっ壊れそうでハラハラして楽しめない。
遠くへは滅多に行かなかったので、お出かけ写真はほとんど無い。
だいたい、コレを人様に見せようとか、自慢しようとかいう発想はなく、あくまでも便利な通勤と買い物のアシであり、機械いじりの教材だった。
遠出と言えば、まだ改造する前に多良岳に行った事があった。天気がよかったのでちょっと走ってみるかと思い立ち、行き先を決めず東へ向かった。
幹線道路はあまり走りたくないので、アップダウンが激しい多良岳レインボーロードという農道を走り、高来町まで。寂しい山の中の単調な景色であまり面白くない道だが、時々遠くの景色も見える。
いこいの村長崎の方へ登ったら、以前、軽四駆でよく多良岳周辺を走っていた事を思い出し、その場で多良岳へ行くことに決めた。金泉寺登山口から多良岳山頂までは、歩いて1時間もかからなかったはず。
そんな軽い気持ちでつづら折りの裏道を登りはじめたのだが、金泉寺登山口は、標高724mの所にある。途中、空冷エンジンと駆動部が熱でダレて20キロも出なくなり、急坂ではついに10キロを切った。ぶぶぅうぅうぅう・・・
仕方ないので、足で地面を蹴って進んだ。「人間アシスト原付自転車」と名付けた。
足を大きく動かすと、後ろのタイヤにかかとを踏まれて靴が脱げ、靴が轢かれた。
時々バイクのために休憩してエンジンの熱を冷まし、また出発する。これを繰り返して、やっとこさ登山口に着き、キャノピーを放置して山に登った。
バイクが意思を持っていたら、虐待で訴えられるレベルだった。
キャノピーに乗り始めて5年ほど経った頃、ネットで昔のランドナー風自転車が低価格で販売されている事を知って飛びつき、自転車生活が始まった。
自転車で散歩する面白さにも気づき、折り畳み自転車で近所をうろつきまわるようになり、通勤も買い物も、できる限り自転車を使っていた。
そして、原付よりも、はるかに遠くまで出かけるようになってゆく。
キャノピーの出動は、時間がない時、荷物が多い時、自転車では凍える冬の寒い時期や、通勤で朝から汗をかきたくない時などに限定された。
それでも動かなくならないよう、週に数回はエンジンをかけてご近所パトロールしていたが、ある土曜日、路地から通りに出たところで、坂を勢いよく下ってきた軽自動車とパーン!と接触し、ポテッとコケ、フロントフォークがくにゃんと曲がってしまった。
ちゃんと確認したつもりだったが、クルマの接近に気づかず、アクセルを回した瞬間に眼の前にいた。お星さまになってみんなを見守ろうと思ったが、あいにくまだ生きていた。
家までは、傾きながらなんとかヨレヨレ自走できたものの、キャノピーはそれから長いこと軒下の物置きとなる。ミラーにぞうきんを干されたりしてかわいそうだった。
自分はというと、コケた時に右足のつま先をフロアステップにびっしゃがれて痛めたのだが、それで済んで幸いだった。ただ、確認はしっかりする方だと思っていたので、ちょっと運転に自信がなくなった。歳のせいか、痴呆の前触れか。
※注:(長崎弁)びっしゃがれる→ぶっ潰される
キャノピーは、普段あまり乗らなくなったので、修理するか売っぱらうか迷っているうちに半年が過ぎ、一年が過ぎた。そして、また別の件で今度は左足のふくらはぎの靭帯を損傷し、しばらくは自転車やバイクどころではなくなってしまった。
それからまた時が経ち、後輩が「修理して乗りたいから売ってほしい」と言ってきたので、予備のパーツや専用工具、マニュアル一式付きでくれてやった。

かわいがってもらえる家にお嫁に行ったほうが、バイクも幸せだろう。新しい水色のナンバーがつけられたキャノピーは、フロントフォークを交換して、元気に走っているようだ。
3輪ミニカーのキャノピーで過ごした日々の記録は、これでおしまい。
原稿用紙で2ページくらいで終わるかと思ったが、また長々と書いてしまった。
振り返ってみれば、楽しく有意義な時間をくれたバイクだった。この時に得た整備の知識は、今でも役に立っている。ホンダ技研工業に感謝感謝!