皇后島はいつ、ねずみ島になったか
長崎地名的散歩
長崎港に浮かんでいたねずみ島は、港湾開発の埋め立てで
埠頭の一部となり、現在は島ではなくなっている。
むかしのねずみ島

(国土地理院空中写真サービス 昭和37年撮影)
明治から昭和にかけて、ここは水泳の訓練場であり、市民の
ための海水浴場でもあった。

私の姉の世代までは、小学生は夏休みになると大波止から
船で数分のこの島へ渡り、水泳教室に通った。
船はハシケに屋根をつけたような団平船(ダンベセン)で、
乗客は立ったまま乗る。揺れたら波がザプンと床に入って
来るというスリリングな乗り物だった記憶がある。
子ども達はゴムひもに沢山の五円玉を通した「財布」を
腕に巻いて泳ぎ、休憩時はそれでおやつを買った。
シワシワの濡れた手で五円玉を渡して。
島は無くなったが、高みの部分にはねずみ島の名を冠する
公園が作られ、海岸の一部も自然のまま残されている。

何も残ってないよりはいい。
すぐそばには大きな金属ゴミのリサイクル所。

海岸に放置された廃船。「銀杏丸」というらしい。

どうもこれが観光スポット扱いされているようなのだが、渚には崩落した
サビの塊が、ハングル文字の浣腸などのゴミと一緒に打ち寄せている。
水質汚染で泳げなくなった所なので、どうでもいいのだろうか。
頭の悪い子どもがキャー!と言ってボロ船によじ登り、
床がズボッと抜ける事もありそうだ。残すのなら少し
考えた方がよさそう。
顕彰碑の胸像は、田中直司氏。水泳の先生らしい。

貧乏で裸なのではない。
この島は、正式名称は皇后島(こうごじま)なのだが、
いつの頃からか「ねずみ島」と呼ばれるようになった。
こちらは、神功皇后伝説があった事を教える石碑。

長崎周辺の海岸の町には、神功皇后が立ち寄ったという
説話があちこちに残っている。
これは船着き場の跡らしい。ここから上陸したようだ。

周辺には多くの釣り客。遠くに伊王島大橋も見える。

「ねずみ島」の由来には、次のものがある。
・中心地だった深堀から見て子(ね)つまり北の方角だから。
・昔、ねずみが大量発生したから。
どちらも根拠が薄い。子の方角をネのスミとは言わんだろう。
それにこの辺りの島は、深堀から見ればすべて北じゃわい。
天敵のいない島でねずみが増えすぎる事があるとは聞くが、
史実なら記録がありそうなもの。
他に由来があるのだろうと考えていたが、「小瀬戸番所」と
いうものが江戸時代にあって、長崎港への外国船の侵入を
見張っていたという話を何かで読み、ピンと立った。いや、
ピンときた。
番所はねずみ島の目の前の海岸にあった。

現在の市役所小榊出張所うしろの丘の上に、遠見番所。
その丘の中腹には、中番所。
そして海岸近くに、不寝番所。

(国土地理院空中写真サービス 昭和37年撮影)
この三ヶ所で睨みをきかせていたそうな。
「不寝番」はフネバンでは無く、フシンバンと読むが、
漢文読みで「ネズバン、ネズノバン」とも読む。
交代で、夜通し寝ずの番をした所だ。
話し言葉が皆に判りやすいので「ネズ番所」と呼ばれて
いたと思うのだが、今のところその証拠はない。
つまり、不寝番所の目の前にあるこの島は、月明りの下
いやでも一晩中「寝ず見る島」だったはず。

これが、ねずみ島の由来ではなかっただろうか。
初めは自分でも「まさかねぇ~」と思ったが、調べたら
「ねずみ」に関する地名で同様の由来と考えられて
いる例が複数見つかり、結局、一番ありそうに思えた。
江戸の直轄地だった長崎。長く続いた太平の世で育った
番人のひとりが、夜の見張りの緊張と退屈を紛らすため、
「寝ずに見る島ねずみ島、トテ、チントンシャン」などと
洒落て言ったのが、だんだん広まったのではないか。
そんな想像をさせるのは、真面目だが根は楽天的な
日本人の話だからだ。
1813年 伊能忠敬作成の地図には、小瀬戸の番所と共に、
すでに「鼠島」と書かれている。
小瀬戸番所が出来たのは1600年台後半。ニックネームが
本名より有名になるまで、100年もあれば充分だろう。

中途半端に埋まってしまったねずみ島だが、また100年後
くらいにはやっとその価値が認められ、周囲を掘り返し
橋を渡し「ネズミーシーアイランド」などと称して、どっかで
見たようなネズミロボットが泳いでいるかもしれない。
「寝ず見島説」は、思いつきで検証もしていないが、
同様の話を見かけなかったので書いてみた。
ハッ!まさか、くだらなすぎて誰も書かなかったとか‥?
もっと古い文献で「鼠島」の記述が見つかった時は、
即、この記事を消し、何も無かった振りをする予定。
埠頭の一部となり、現在は島ではなくなっている。
むかしのねずみ島

(国土地理院空中写真サービス 昭和37年撮影)
明治から昭和にかけて、ここは水泳の訓練場であり、市民の
ための海水浴場でもあった。

私の姉の世代までは、小学生は夏休みになると大波止から
船で数分のこの島へ渡り、水泳教室に通った。
船はハシケに屋根をつけたような団平船(ダンベセン)で、
乗客は立ったまま乗る。揺れたら波がザプンと床に入って
来るというスリリングな乗り物だった記憶がある。
子ども達はゴムひもに沢山の五円玉を通した「財布」を
腕に巻いて泳ぎ、休憩時はそれでおやつを買った。
シワシワの濡れた手で五円玉を渡して。
島は無くなったが、高みの部分にはねずみ島の名を冠する
公園が作られ、海岸の一部も自然のまま残されている。

何も残ってないよりはいい。
すぐそばには大きな金属ゴミのリサイクル所。

海岸に放置された廃船。「銀杏丸」というらしい。

どうもこれが観光スポット扱いされているようなのだが、渚には崩落した
サビの塊が、ハングル文字の浣腸などのゴミと一緒に打ち寄せている。
水質汚染で泳げなくなった所なので、どうでもいいのだろうか。
頭の悪い子どもがキャー!と言ってボロ船によじ登り、
床がズボッと抜ける事もありそうだ。残すのなら少し
考えた方がよさそう。
顕彰碑の胸像は、田中直司氏。水泳の先生らしい。

貧乏で裸なのではない。
この島は、正式名称は皇后島(こうごじま)なのだが、
いつの頃からか「ねずみ島」と呼ばれるようになった。
こちらは、神功皇后伝説があった事を教える石碑。

長崎周辺の海岸の町には、神功皇后が立ち寄ったという
説話があちこちに残っている。
これは船着き場の跡らしい。ここから上陸したようだ。

周辺には多くの釣り客。遠くに伊王島大橋も見える。

「ねずみ島」の由来には、次のものがある。
・中心地だった深堀から見て子(ね)つまり北の方角だから。
・昔、ねずみが大量発生したから。
どちらも根拠が薄い。子の方角をネのスミとは言わんだろう。
それにこの辺りの島は、深堀から見ればすべて北じゃわい。
天敵のいない島でねずみが増えすぎる事があるとは聞くが、
史実なら記録がありそうなもの。
他に由来があるのだろうと考えていたが、「小瀬戸番所」と
いうものが江戸時代にあって、長崎港への外国船の侵入を
見張っていたという話を何かで読み、ピンと立った。いや、
ピンときた。
番所はねずみ島の目の前の海岸にあった。

現在の市役所小榊出張所うしろの丘の上に、遠見番所。
その丘の中腹には、中番所。
そして海岸近くに、不寝番所。

(国土地理院空中写真サービス 昭和37年撮影)
この三ヶ所で睨みをきかせていたそうな。
「不寝番」はフネバンでは無く、フシンバンと読むが、
漢文読みで「ネズバン、ネズノバン」とも読む。
交代で、夜通し寝ずの番をした所だ。
話し言葉が皆に判りやすいので「ネズ番所」と呼ばれて
いたと思うのだが、今のところその証拠はない。
つまり、不寝番所の目の前にあるこの島は、月明りの下
いやでも一晩中「寝ず見る島」だったはず。

これが、ねずみ島の由来ではなかっただろうか。
初めは自分でも「まさかねぇ~」と思ったが、調べたら
「ねずみ」に関する地名で同様の由来と考えられて
いる例が複数見つかり、結局、一番ありそうに思えた。
江戸の直轄地だった長崎。長く続いた太平の世で育った
番人のひとりが、夜の見張りの緊張と退屈を紛らすため、
「寝ずに見る島ねずみ島、トテ、チントンシャン」などと
洒落て言ったのが、だんだん広まったのではないか。
そんな想像をさせるのは、真面目だが根は楽天的な
日本人の話だからだ。
1813年 伊能忠敬作成の地図には、小瀬戸の番所と共に、
すでに「鼠島」と書かれている。
小瀬戸番所が出来たのは1600年台後半。ニックネームが
本名より有名になるまで、100年もあれば充分だろう。

中途半端に埋まってしまったねずみ島だが、また100年後
くらいにはやっとその価値が認められ、周囲を掘り返し
橋を渡し「ネズミーシーアイランド」などと称して、どっかで
見たようなネズミロボットが泳いでいるかもしれない。
「寝ず見島説」は、思いつきで検証もしていないが、
同様の話を見かけなかったので書いてみた。
ハッ!まさか、くだらなすぎて誰も書かなかったとか‥?
もっと古い文献で「鼠島」の記述が見つかった時は、
即、この記事を消し、何も無かった振りをする予定。
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