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長与の珍川は、どんな珍しい川だったか

長崎地名的散歩
02 /24 2020
 昭和47年頃から、長与町の山を切り開いて作られた
長与ニュータウン
DSCF98951A.jpg


 この丘の上に、「珍川」という名のバス停がある。
DSCF75601A.jpg


 小学生男子なら、チン皮、チン皮!きゃっほう~!
大喜びする所だろう。(さっそく下ネタかい!)

 しかし残念ながらこれはめずらしがわと読む。

 昔からある小字(こあざ)地名だ。

n-nt_koaza.jpg

 長崎県の小字地名総覧では、表記とバス停の位置は
だいぶ離れている。大曽野という小字も同様。
 人が住んでいた場所ではないようなので、詳細な
場所ははっきりしないものと思う。 

 しかし、川のつく地名なのに、周囲に川は見えず、
道路の両端にある側溝にも水は少しも流れていない。
マンホールもないので、暗渠(あんきょ)になっている
わけでもないようだ。

 地殻変動とかの影響で川は消えてしまったのか‥。
  
 そうだとしても、ここに一体どんな珍しい川
あったというのだろう?

調べても何もでてこなかったので、自分で考えて
みることにした。

① 水ではなく、そうめんが流れていた。

② 川で泳ぐと、河童に尻のほっぺたを甘がみされた。

③ 捕まえた魚が「わしを食うんか?」と涙目で言った。

 ウーン、珍しくはあるが、違うような気がする。
 やはり、地形による地名だろうか‥。

 現在の衛星写真を見ても住宅が整然と並ぶだけで、
元々の地形が判らず、見当がつかない。
n-nt_zenkei1.jpg
 Googleマップより ※南北を逆に表示

 しかし、昭和41年の航空写真を見ていたら、
地図の神様が降りてきた!
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 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより 
 ※赤い線は、現在の住宅部分(だいたいのてきとう)

 これはたぶん、
「みずなしがわ」だったのが、いつの間にか
「めずらしがわ」に変化したのだろうと思う。


 水無し川とは、普段は水が無いのに、大雨の時だけ
水があふれ、ドードー!と流れる場所
のこと。地形や
地質によってそういう現象が起きる。

平成の雲仙普賢岳噴火災害で土石流に埋もれた、
島原市の水無川は記憶に新しい。

 たわしの考えでは「○○川」という地名の多くは、
大雨が降った際に、増水して川のようになる土地を
そう呼んでいたものと思う。

長与ニュータウンの全体の地形は、手前に傾いた
台の背後に屏風を立てた「ひな壇」のような形に
なっていて、周囲の山とはつながっていない。
n-ntchikei1.jpg
 Googleマップより

 地質的には、大曽野という地名(大きな岩石が
ゴロゴロしている所)や、全面をコンクリートで
固められた背後の高い崖からも判る通り、元々は
表面が風化して崩れやすい岩山だったはず。

 つまり、独立した岩山で傾斜地なので、降った
雨は染みこまずに流れ、通常は川ができるほどの
水量はなかった
ものと思われる。

さらに、台は正面から見た中央部が低くなって
いるため、まるで巨大なジョウゴのようだ。
DSCF7537A.jpg

 大雨が降ると、背後の屏風のように切り立った
山の分を含めた大量の水が、谷間に沿って流れる。

 Googleマップやストリートビューで見るよりも、
実際の坂の傾斜はきつい。
DSCF7534A.jpg

 そして、ほとんどの水がジョウゴの底の部分
あたる、珍川のバス停付近に向かって集まり、
濁流となって低地に駆けくだる。
mez-41_3.jpg


そういう土地だったのではないだろうか。

 そういえば、メインストリートであるイチョウ通り
の側溝は、ずいぶん深かった。舗装された現在の
方がかえって大雨の際の水量は多く、まっすぐで
抵抗が少ない分、速い速度で流れるのだろう。
DSCF7557A.jpg

珍川の崖の下には「江の下」というバス停がある。

 江はこの場合、増水して流れ下る川のことか。
滝のように崖を落ちていたかもしれない。


 以前、長与ニュータウンの知人宅に行く際、坂の
途中にあった中華料理屋さんで何度か飯を食べた。
 久し振りに懐かしい昭和の味の炒飯を食べようと
思ったのだが、店はもう、普通の住宅になっていた。

DSCF99391A.jpg


 地名の意味のように、町の記憶がまたひとつ、
 忘れられていくのだろう。




※参考文献:
 古代地名語源辞典 楠原佑介編
 長崎県の小字地名総覧 草野正一著

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女の都(めのと) 長崎空中住宅地の先駆け

長崎地名的散歩
02 /20 2020
長崎の変わった地名と言えば、やはり、女の都(めのと)は定番だろう。

 最近ではテレビでもたびたび取り上げられて有名になって、もういちいち、
「オンナノミヤコじゃなかとですばい」と言うのも面倒くさいほどに。

いやぁしかし、私も子供の頃は、女の都行きのバスを見るとアマゾネス
ような半裸の女の人達が戦っているのだろうかと想像してドキドキしたものだ。
(↑そんなわけあるかい!)


 女の都団地は、平地が少ない長崎によくある山の上のニュータウン。
開発が始まったのは昭和40年代とけっこう早い。

menoto_now.jpg
 Googleマップより

 整然と一戸建てが並んでいるが、奥の通りは自動車がすれ違えない
細い道になっていて、ちょっと時代を感じさせる。でも、険しい地形の
部分にもギッシリ家が建ち並んでいるのは、便利で暮らしやすい町
だからだろう。

DSCF7518A.jpg


 「めのと」の地名由来でまず聞くのが、山里では定番の平家の落人が
隠れ住んだところ説。ここの場合は女官が多くいたので女の都になった
そうな。フームなるほどねぇ。

 もうひとつは、地形による説。全国的に、山などに囲まれた暖かい
南向きの斜面地を、ばあちゃんが赤子を抱っこする状態になぞらえて、
「姥の懐(うばのふところ)」と呼ぶのだが、同じウバでも「乳母(うば)」
を「めのと」とも読むことから、これも同様の「ぬくぬく地名」だと
いうもの。

「姥の懐」は長崎の方言で「うばんつくら」と言い、県内の
あちこちにそれに類する小字地名がある。
 うばんつくらは温暖で日当たりがよいため作物がよく育つ、農業に
向いている土地だ。

 女の都周辺には、確かに姥の懐と同様の地形があちこちに見られる。
状況的には「乳母(めのと)説」でよさそうだが、今ひとつ納得できない。

 だいたいこれは、古文書でメノトが乳母と書かれていたのが根拠
らしいが、単に昔のお役人が思い込みで乳母の字をあてて書いただけの
ような気がする。


 では、メノトには別の意味があるのだろうか。

 地名の「メ」は、オスメスのメスで、地形的に、
凸凹の凹の所を示すことが多い。

 例えば、長崎港入口、女神大橋の両側にそれぞれある、男神(おがみ)と
女神(めがみ)の地形を比較するとよく判る。

ogami_megamiB.jpg

 男神は海にドドーンと突き出した岩山の岬で、対岸の女神は大きな
谷間のある山。

 また、諫早市の目代(めしろ)町は、山の尾根が広範囲に平面的に
くぼんでいる。
地名の「しろ」は小高い平坦地の事なので、地形と地名が一致している。


 メノトの「ト」とは何か。

 地名のトは戸や門と書き、海岸の場合は港の事とも言われているが、
大抵は、両側に山や崖などが迫る所を指している。
 それは海峡でも河口でも道路でも山の中でも同じ。
 
 女の都の場合は、山の間の窪地と言えそうな所が、あちこちにある。

DSCF7508A.jpg


つまり、
「窪地(メ)が、山に囲まれたところ(ト)なので、
メのト。」

と説明できそうだ。


もうちょっと根拠がほしい。

 長崎県の小字地名一覧には、小字名「女の戸」の記載があるので、
元々ピンポイントな地形地名だった可能性が高い。

一覧表では「女の戸」なのに、地図上ではなぜか「女の都」になっている。

menoto_koazaA.jpg

 よく見ると、小字の文字はゴシック体なのに、これは明朝体。
流用した現代の地図の文字らしい。
うそやんけ!だましやんけ!

 これでは場所の特定が出来ない。
長崎市内は、他の小字も地図には書かれていないものが多い。


 地名の意味を考える時、古い航空写真や地図は大いに役立つ。
昭和37年の女の都近辺の航空写真を見てみよう。

menoto_s37-2.jpg
 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより


 これにより、団地ができる前まで、女の都は山あいの農村集落だった
ことが判る。

 当時、ここへのアクセスは、畦道を除けば川平方面から登る細い谷間の
道だけであり、こちらが正面ということになる。女の都2丁目の周囲の斜面
には、切り拓かれた棚田や畑が広がっていて、数軒の民家が確認できる。

現在の川平方面からの登り口
DSCF7502A.jpg


女の都1丁目、2丁目周辺は南向きに広範囲に落ち込んだ窪地で、背後に
山があって北風が当たらないため「うばんつくら」地形と言えそうだ。

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 元々人が住んでいたこの辺りが「女の戸」だった可能性は高い。


昭和37年と現在の比較
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元々の道路が無ければ、なかなか同じ場所とは気づかない。 


 そろそろ結論を出さねばならないが、微妙なところだ。女の都は、山に
囲まれた窪地なのは間違いない。おそらくこれが由来だと思うのだが、
暖かい土地であることも事実。

ハッ!
もしかして‥ メノトは、地形と気候の状況を一言で文学的に表現した
「ハイブリッド・ポエム地名」だったのかもしれない!!

  (↑いいのか?その結論でいいのか?) 


最後に、なぜ「オンナのミヤコ」と書くのかという点を片付けよう。

「女の都」という漢字表記は、おそらく住宅団地ができた昭和40年台に、
「女の戸」を、インパクトと話題性のある【女の都】に変えたのだろう。

と、思っていたのだが、それは長崎市に対して、スライディング三回転
半ひねりムーンサルト土下座で謝罪せねばならない程の誤解だった!

 明治時代に作成し、昭和の初期に改定された地図にはすでに「女ノ都」
表記があるではありんせんか!あちきはもうビックリしやんした。

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 大日本帝国陸軍発行の測量地図より (む読らか右)

少なくともその頃には「おんなのみやこ」と読み間違えてドキドキしてる
子供がいたのだろう。


 でも、やはり元々は、小字一覧の通り「女の戸」と書いていたと思う。
江戸時代まで「都」は天子様が住む皇居がある場所の事であり、田舎の
集落がこの字を好きに名乗れたとは思えない。この漢字の変更は、
明治の文明開化の風潮によって行われたものではないだろうか。

 そういえば、諫早市にある宇都(うづ)町も、江戸時代の古地図には
 「宇津」 と書いてあった。

 田舎であるほど「都」に憧れるもの。都のように賑やかになることを
願ってこの字に変えたのではないかと思うのだが、何ひとつ証拠は、
ないッ!


ただ言えるのは、開拓の小集落だった女の都は、昭和の御代に
たくさんの人々が集まり、本当に「都」になったということ。

そして今では、その名を全国に広く知られるほどに。




※参考文献:
 古代地名語源辞典 楠原佑介編
 長崎県の小字地名総覧 草野正一著

Ramblingbird

長崎南部の自転車散歩やどうでもいい出来事を、小学生ギャグを交えて書き散らします。お下劣な表現を含みますのでご注意下さい。