地名散歩 戸町(とまち)は、リアスの入江
長崎地名的散歩
長崎市戸町は、長崎港入口に架かる女神大橋の東側。

入江の周囲は高い崖に囲まれ、海岸には造船所など、
主に船舶関係の中小の会社が並び、独特の町の景観を
作っている。

住宅は、背後の斜面沿いに山の上まで続いているが、
険しい断崖の辺りは自然のまま。

山の上は戦後からの開発で切り開かれて、上戸町も
新戸町も賑わい、最近はまた、長崎自動車道に直結する
南環状線も通り、イノシシもタヌキもびっくりだ。
海を見下ろす丘の上には、立派なマンションが建ち、
チョー、ナウい町になっている。

戸町(トマチ)は、町制が施行される以前は、
「戸村」では無く、「戸町村」と言った。
これはつまり、元からトマチという地名であって、
トマチの「マチ」は、タウンでは無い!と
いうことだ。
本来なら地名再編の際は「戸町町」になるはずだが、
町を1個抜いて「戸町」にされている。これでは本来の
地名とは別物ではないか!一体なぜそんな乱暴な事を
したのだろう。
佐賀県杵島郡には「大町町(おおまちちょう)」があり
佐世保には「鹿町町(しかまちちょう)」がある。
戸町も、「戸町町」でよかったのでは?
と思ったが、冷静に考えると長崎市の「 町」は、
チョウではなく、マチと読む。
「とまちちょう」ならいいが、「とまちまち」だと、
なんか、アホっぽいからか?
とまちまち ちょっとまちまち とまちまち
うん、そうか~、納得。
さて、戸町の地名由来だが、今回はまず郷土史などの
前情報なしで考えた。どうせ、「おもしろ昔話」ばかり
だろうと思ったからだ。
まず、「ト」は、両側を山や崖に挟まれた土地である
場合が多い。これは戸町の地形とバッチリ合っている。
「ト(戸・門)は、港の事」という説もあるが、それは、
昔の港は入江の地形を利用したからではないかと思う。
すべてとは言えないけれど。
「マチ」は、田んぼの区画を表す言葉だが、戸町の
狭い谷底に田んぼが広がっていたはずがない。それに、
昔は海がもっと入り込んで、平地があったかどうか‥。
納得できそうな「マチ」の意味を辞書で探してみた。
マチ:「はかまの内股の部分に足した布」
これだろうか?
いや、そんな臭い布、田んぼ以上に関係なかろう!
区切りを変えて、トマ・チならどうか。
地名用語では、トマはトバの転(変化)で、崖の事。
チは、内のチで、「内側」の意味かもしれない。
崖の内側。確かに、戸町は周囲を崖に囲まれている。
近辺の町も大抵が山なので、崖地名の所は多い。
おお、けっこうイイ線いってるのでは?

ところがその後、長崎市の情報サイトを見てみると、
戸町は古くは「とはち」と呼ばれ、船の停泊地である
門泊(とはち)が、戸町になった、と書いてあった。
えーっ?そうなの~?ウッソォ~~ん!
驚愕の新事実だった!それを確かめるべく、門泊と
いう言葉を図書館のバカデカい辞書でも探してみるが
見つからない。「泊地(はくち)」ならネット辞書でも
出てくるが、これはそう古い言葉ではない。
「泊(は)つ」という古語は「船が停泊する」という
意味で、万葉集にも記載されている。泊つを名詞化
して「泊ち」にしたのだろうか?
いや、泊は古い時代には「とまり」と読むのが普通
だったはず。やはり門泊説はちょっと怪しいぞ。
しかし、いずれにしてもトハチと呼ばれていたのが
事実であれば、「トマ説」は成立しない。
「はかまの内股の布説」も成立しない。
これで、振りチ‥、いや、「振出しに戻る」だ。
スロットマシンでガッカリ八兵衛の顔が三つ揃って、
山田君に、座ぶとんを全部持って行かれた。
まさにそんな気分。
さらに、深堀町郷土史を見ると、又々違うことが
書いてあった!
「深堀文書」によれば、元々「戸八浦」というのは、
野母半島の先端から、長崎港近辺の島までを含む、
広い範囲のことを言ったとある!
また、現在の戸町は、古くは違う地名であったとか、
古文書では戸八と戸町が混同されていたり、戸八浦を
治めていた戸八氏と深堀氏は、度々領土の取り合いを
したとか、あれこれどれそれ書いてある。
調べれば調べるほど混乱し、頭の中はマゼラン星雲と
車輪銀河が衝突しまくりで、ハトがポップルル~と鳴き、
10万円の代わりに10万円分のアベノマスクが送られて
きた悪夢で飛び起きたと思ったら、柴犬がわんこそばの
新記録に挑戦していて、もう、何が何だかわからない。
一旦、情報を整理しよう。
古文書の話なので、全てが事実とは限らないことを
考慮する必要はあるだろう。
・建長7年(1255年)戦国時代中頃 千葉の深堀能仲が
地頭職に補任され、肥前の国へ来た。
この時代、戸八浦という地名は、大浦山、貝木、切杭、
鹿尾、棹浦、竹留、高浜、野母、それから、末島、中島、
影呂宇島、香焼島など、長崎港近辺の島々も含んだ、
広大な範囲の総称だった。
・戸八浦は、戸八(戸町)氏という豪族が治めていたが、
深堀氏に奪われる形になる。最終的に戸八氏は深堀氏の
家来になった。
・戦国時代、現在の戸町は「杉浦」という地名だった。
地名用語のスギは、「梳(す)き」で、削ぐ・削るの意味
から崩壊崖の意味と言われる。隣町の小菅(こすげ)町は
古い地名であれば、「小スケ」で、スキと同じく、規模が
小さい崖地の意味になる。
・杉浦は、争いの末に、2/3を戸町氏、1/3を深堀氏が
所領する事になった。大村郷村記では、杉浦は現在の
戸町1~3丁目、上戸町、新戸町、国分町の一帯に比定
しているが、それではひとつの入江を共有することに
なってしまう。
戸町4丁目(女神)も含む、もう少し広い範囲ではないか。

・深堀氏が本拠地とした現在の深堀町は、戦国時代に
何という地名だったか判らないが、戸八浦に属した。
・建武5年(1338年)室町時代始め頃、深堀という地名が
記録に出てくる。深堀氏の姓を地名にしたのは明らか。
人名が地名になる例は少ない。よほど自己主張が強い
人物だったのだろう。
これ以後、深堀浦と戸八浦の混同が見られる。
・戸町浦と戸八浦の字も混用されていたが、これは
もっと以前からだったかもしれない。
・「戸八」の表記は、やがて「戸町」に統一される。
・江戸時代には、総称としての「戸町浦」は無くなり、
戸町は、杉浦(現在の戸町)の固有名詞になった。
・深堀町には「戸泊(とどまり)」という地名があるが、
これを門泊(トハチ)の痕跡地名という記述は見ない。
この入江の地形は、両側を崖に挟まれた港であり、
地形通りの地名と言える。

では、これらを元に、疑問点を解いていこう。
◎いきなりだが、トハチとは何か?
たぶんこれは、至って単純な地形地名で、
「傾斜地に挟まれた、鉢底形の入江」
だと思う。
戸町の海岸部は、まさにその通りの地形!

Googleマップ 3D衛星写真より
戸町から、女神大橋を渡った対岸の岬の向こうに、
「木鉢(きばち)」という地区がある。

深く切れ込んだ入り江の周囲を傾斜地が囲んでおり、
ここも明らかな「ハチ」地形だ。
木鉢の「キ」は、「険しい地形」の意味をもつ。

Googleマップ 3D衛星写真より
もしかしたら、これは「戸八(とはち)」の元の意味を
今に伝える「シーラカンス地名」かもしれない。
鉢形の「ハチ地名」は探せばあちこちにある。
東長崎の山の上にある「八峰(はちみね)」も、鉢の
ような形の土地になっている。

Googleマップ 3D衛星写真より

◎「戸八浦」はなぜ、広い範囲の総称だったか。
野母半島(長崎半島)の西岸には、周囲が斜面か崖で、
鉢のような形をしたリアス式海岸の入り江が多い。
これが「トハチ」だと思うのだが、戸八浦に属する
土地の多くが、その特徴を持っているからだと思う。
小菅町(戸町トンネルの北側)
右下は、世界遺産の小菅修船場跡

蚊焼(かやき・深堀文書では貝木)

野母漁港

大浦天主堂が有名な大浦町も、石橋迄の電車通りは
埋め立てであり、むかしは鉢形の入江だったはず。

国土地理院地図 自分で作る色別標高図より
この他、香焼町の栗の浦浜と馬手ヶ浦(長浜)、岳路の
海岸、高浜町の野々串港などもトハチだろう。
面白いのは、この「トハチ地形」は野母半島の西側に
集中しており、他の地域ではあまり見かけないこと。
郡など、広い範囲の地名は、地域の全体的な地形の
特徴を表していることが多い。
例えば、長崎県の高来(たかき)郡は、多良岳と雲仙岳
周辺の「高い所」を意味すると言われる。
◎なぜ、トハチ浦は、トマチ浦に変化したのか。
古文書で「とはち」と書いてあっても、その通りに
読んだかは判らない。濁点は省略される事が多かった
からだ。漢字なら尚更のこと。
自分は「とばち」と読んでいたと考えている。
なぜなら、「とばち」の方が、発音しやすいから。
奈良時代頃までは、ハはパ、ファと発音したので、
「とぱち」→「とふぁち」→「とはち」→「とばち」
と、変化していったのかもしれない。
そして、トマチになった最大の理由、日本語の、
「バ行とマ行の交替現象」が起きる。
けぶり→けむり
さびしい→さみしい
さぶい→さむい
とばち→とまち!
これは自然に起きる変化らしい。進化か退化かは
知らないが、新しいほどマ行になる傾向だそうだ。
両方使われ続けている言葉もある。
深堀文書などで、戸八浦と戸町浦が混用されていた
のは、変化する過渡期だったからではないかと思う。
聞き間違える場合もあっただろう。
◎野母半島西岸の総称だった「戸町」は、なぜ
現在の戸町の固有名詞になったのか。
時代が変わり、土地の管理者も変わると、戸町浦と
いう総称は不要になる。逆に邪魔になっただろう。
行き場を失った「戸町」の地名だが、無くすのは
忍びないので、一番「トハチ」らしい地形の杉浦、
つまり現在の戸町に限定して残したのではないか。
あるいは、単純にオリジナルの「トハチ浦」が、
杉浦周辺だったとすれば、元々の地名に戻しただけ
ということになる。戸八氏の居城と考えられている
所は、琴平町の金刀比羅神社、上戸町付近、そして
女神大橋そばの大久保山など、広範囲に渡る。
港の入口を挟んだ対岸にある「木鉢」との関係も
気になる。
戸町4、5丁目は「女神」と言い、対岸の木鉢の岬
付近は「男神」。これは町を守る為の
呪術的な意味合いがあったのかも知れない。
と、今回はこんなところ。

長崎のような半島地形の地名由来を検討する場合、
私などは「海からの視点」が必要だと
考えている。

戸町を海から見る。(本当は対岸の西泊から)
長崎という土地は、現在でも隣町に行くには、山を
越えなければならない。古代だと、官道が整備される
以前は獣道だけのはず。最初の征服者は、海から来て
崖だらけの使いにくそうな土地を見て回った。
そして、変わった地形の入り江に、印象的な名前を
つけたと思うのだが、どうだろうか‥。
参考文献:
角川 日本地名大辞典 長崎
深堀町郷土史
長崎県の小字地名総覧 草野正一
古代地名語源辞典 楠原 佑介編

入江の周囲は高い崖に囲まれ、海岸には造船所など、
主に船舶関係の中小の会社が並び、独特の町の景観を
作っている。

住宅は、背後の斜面沿いに山の上まで続いているが、
険しい断崖の辺りは自然のまま。

山の上は戦後からの開発で切り開かれて、上戸町も
新戸町も賑わい、最近はまた、長崎自動車道に直結する
南環状線も通り、イノシシもタヌキもびっくりだ。
海を見下ろす丘の上には、立派なマンションが建ち、
チョー、ナウい町になっている。

戸町(トマチ)は、町制が施行される以前は、
「戸村」では無く、「戸町村」と言った。
これはつまり、元からトマチという地名であって、
トマチの「マチ」は、タウンでは無い!と
いうことだ。
本来なら地名再編の際は「戸町町」になるはずだが、
町を1個抜いて「戸町」にされている。これでは本来の
地名とは別物ではないか!一体なぜそんな乱暴な事を
したのだろう。
佐賀県杵島郡には「大町町(おおまちちょう)」があり
佐世保には「鹿町町(しかまちちょう)」がある。
戸町も、「戸町町」でよかったのでは?
と思ったが、冷静に考えると長崎市の「 町」は、
チョウではなく、マチと読む。
「とまちちょう」ならいいが、「とまちまち」だと、
なんか、アホっぽいからか?
とまちまち ちょっとまちまち とまちまち
うん、そうか~、納得。
さて、戸町の地名由来だが、今回はまず郷土史などの
前情報なしで考えた。どうせ、「おもしろ昔話」ばかり
だろうと思ったからだ。
まず、「ト」は、両側を山や崖に挟まれた土地である
場合が多い。これは戸町の地形とバッチリ合っている。
「ト(戸・門)は、港の事」という説もあるが、それは、
昔の港は入江の地形を利用したからではないかと思う。
すべてとは言えないけれど。
「マチ」は、田んぼの区画を表す言葉だが、戸町の
狭い谷底に田んぼが広がっていたはずがない。それに、
昔は海がもっと入り込んで、平地があったかどうか‥。
納得できそうな「マチ」の意味を辞書で探してみた。
マチ:「はかまの内股の部分に足した布」
これだろうか?
いや、そんな臭い布、田んぼ以上に関係なかろう!
区切りを変えて、トマ・チならどうか。
地名用語では、トマはトバの転(変化)で、崖の事。
チは、内のチで、「内側」の意味かもしれない。
崖の内側。確かに、戸町は周囲を崖に囲まれている。
近辺の町も大抵が山なので、崖地名の所は多い。
おお、けっこうイイ線いってるのでは?

ところがその後、長崎市の情報サイトを見てみると、
戸町は古くは「とはち」と呼ばれ、船の停泊地である
門泊(とはち)が、戸町になった、と書いてあった。
えーっ?そうなの~?ウッソォ~~ん!
驚愕の新事実だった!それを確かめるべく、門泊と
いう言葉を図書館のバカデカい辞書でも探してみるが
見つからない。「泊地(はくち)」ならネット辞書でも
出てくるが、これはそう古い言葉ではない。
「泊(は)つ」という古語は「船が停泊する」という
意味で、万葉集にも記載されている。泊つを名詞化
して「泊ち」にしたのだろうか?
いや、泊は古い時代には「とまり」と読むのが普通
だったはず。やはり門泊説はちょっと怪しいぞ。
しかし、いずれにしてもトハチと呼ばれていたのが
事実であれば、「トマ説」は成立しない。
「はかまの内股の布説」も成立しない。
これで、振りチ‥、いや、「振出しに戻る」だ。
スロットマシンでガッカリ八兵衛の顔が三つ揃って、
山田君に、座ぶとんを全部持って行かれた。
まさにそんな気分。
さらに、深堀町郷土史を見ると、又々違うことが
書いてあった!
「深堀文書」によれば、元々「戸八浦」というのは、
野母半島の先端から、長崎港近辺の島までを含む、
広い範囲のことを言ったとある!
また、現在の戸町は、古くは違う地名であったとか、
古文書では戸八と戸町が混同されていたり、戸八浦を
治めていた戸八氏と深堀氏は、度々領土の取り合いを
したとか、あれこれどれそれ書いてある。
調べれば調べるほど混乱し、頭の中はマゼラン星雲と
車輪銀河が衝突しまくりで、ハトがポップルル~と鳴き、
10万円の代わりに10万円分のアベノマスクが送られて
きた悪夢で飛び起きたと思ったら、柴犬がわんこそばの
新記録に挑戦していて、もう、何が何だかわからない。
一旦、情報を整理しよう。
古文書の話なので、全てが事実とは限らないことを
考慮する必要はあるだろう。
・建長7年(1255年)戦国時代中頃 千葉の深堀能仲が
地頭職に補任され、肥前の国へ来た。
この時代、戸八浦という地名は、大浦山、貝木、切杭、
鹿尾、棹浦、竹留、高浜、野母、それから、末島、中島、
影呂宇島、香焼島など、長崎港近辺の島々も含んだ、
広大な範囲の総称だった。
・戸八浦は、戸八(戸町)氏という豪族が治めていたが、
深堀氏に奪われる形になる。最終的に戸八氏は深堀氏の
家来になった。
・戦国時代、現在の戸町は「杉浦」という地名だった。
地名用語のスギは、「梳(す)き」で、削ぐ・削るの意味
から崩壊崖の意味と言われる。隣町の小菅(こすげ)町は
古い地名であれば、「小スケ」で、スキと同じく、規模が
小さい崖地の意味になる。
・杉浦は、争いの末に、2/3を戸町氏、1/3を深堀氏が
所領する事になった。大村郷村記では、杉浦は現在の
戸町1~3丁目、上戸町、新戸町、国分町の一帯に比定
しているが、それではひとつの入江を共有することに
なってしまう。
戸町4丁目(女神)も含む、もう少し広い範囲ではないか。

・深堀氏が本拠地とした現在の深堀町は、戦国時代に
何という地名だったか判らないが、戸八浦に属した。
・建武5年(1338年)室町時代始め頃、深堀という地名が
記録に出てくる。深堀氏の姓を地名にしたのは明らか。
人名が地名になる例は少ない。よほど自己主張が強い
人物だったのだろう。
これ以後、深堀浦と戸八浦の混同が見られる。
・戸町浦と戸八浦の字も混用されていたが、これは
もっと以前からだったかもしれない。
・「戸八」の表記は、やがて「戸町」に統一される。
・江戸時代には、総称としての「戸町浦」は無くなり、
戸町は、杉浦(現在の戸町)の固有名詞になった。
・深堀町には「戸泊(とどまり)」という地名があるが、
これを門泊(トハチ)の痕跡地名という記述は見ない。
この入江の地形は、両側を崖に挟まれた港であり、
地形通りの地名と言える。

では、これらを元に、疑問点を解いていこう。
◎いきなりだが、トハチとは何か?
たぶんこれは、至って単純な地形地名で、
「傾斜地に挟まれた、鉢底形の入江」
だと思う。
戸町の海岸部は、まさにその通りの地形!

Googleマップ 3D衛星写真より
戸町から、女神大橋を渡った対岸の岬の向こうに、
「木鉢(きばち)」という地区がある。

深く切れ込んだ入り江の周囲を傾斜地が囲んでおり、
ここも明らかな「ハチ」地形だ。
木鉢の「キ」は、「険しい地形」の意味をもつ。

Googleマップ 3D衛星写真より
もしかしたら、これは「戸八(とはち)」の元の意味を
今に伝える「シーラカンス地名」かもしれない。
鉢形の「ハチ地名」は探せばあちこちにある。
東長崎の山の上にある「八峰(はちみね)」も、鉢の
ような形の土地になっている。

Googleマップ 3D衛星写真より

◎「戸八浦」はなぜ、広い範囲の総称だったか。
野母半島(長崎半島)の西岸には、周囲が斜面か崖で、
鉢のような形をしたリアス式海岸の入り江が多い。
これが「トハチ」だと思うのだが、戸八浦に属する
土地の多くが、その特徴を持っているからだと思う。
小菅町(戸町トンネルの北側)
右下は、世界遺産の小菅修船場跡

蚊焼(かやき・深堀文書では貝木)

野母漁港

大浦天主堂が有名な大浦町も、石橋迄の電車通りは
埋め立てであり、むかしは鉢形の入江だったはず。

国土地理院地図 自分で作る色別標高図より
この他、香焼町の栗の浦浜と馬手ヶ浦(長浜)、岳路の
海岸、高浜町の野々串港などもトハチだろう。
面白いのは、この「トハチ地形」は野母半島の西側に
集中しており、他の地域ではあまり見かけないこと。
郡など、広い範囲の地名は、地域の全体的な地形の
特徴を表していることが多い。
例えば、長崎県の高来(たかき)郡は、多良岳と雲仙岳
周辺の「高い所」を意味すると言われる。
◎なぜ、トハチ浦は、トマチ浦に変化したのか。
古文書で「とはち」と書いてあっても、その通りに
読んだかは判らない。濁点は省略される事が多かった
からだ。漢字なら尚更のこと。
自分は「とばち」と読んでいたと考えている。
なぜなら、「とばち」の方が、発音しやすいから。
奈良時代頃までは、ハはパ、ファと発音したので、
「とぱち」→「とふぁち」→「とはち」→「とばち」
と、変化していったのかもしれない。
そして、トマチになった最大の理由、日本語の、
「バ行とマ行の交替現象」が起きる。
けぶり→けむり
さびしい→さみしい
さぶい→さむい
とばち→とまち!
これは自然に起きる変化らしい。進化か退化かは
知らないが、新しいほどマ行になる傾向だそうだ。
両方使われ続けている言葉もある。
深堀文書などで、戸八浦と戸町浦が混用されていた
のは、変化する過渡期だったからではないかと思う。
聞き間違える場合もあっただろう。
◎野母半島西岸の総称だった「戸町」は、なぜ
現在の戸町の固有名詞になったのか。
時代が変わり、土地の管理者も変わると、戸町浦と
いう総称は不要になる。逆に邪魔になっただろう。
行き場を失った「戸町」の地名だが、無くすのは
忍びないので、一番「トハチ」らしい地形の杉浦、
つまり現在の戸町に限定して残したのではないか。
あるいは、単純にオリジナルの「トハチ浦」が、
杉浦周辺だったとすれば、元々の地名に戻しただけ
ということになる。戸八氏の居城と考えられている
所は、琴平町の金刀比羅神社、上戸町付近、そして
女神大橋そばの大久保山など、広範囲に渡る。
港の入口を挟んだ対岸にある「木鉢」との関係も
気になる。
戸町4、5丁目は「女神」と言い、対岸の木鉢の岬
付近は「男神」。これは町を守る為の
呪術的な意味合いがあったのかも知れない。
と、今回はこんなところ。

長崎のような半島地形の地名由来を検討する場合、
私などは「海からの視点」が必要だと
考えている。

戸町を海から見る。(本当は対岸の西泊から)
長崎という土地は、現在でも隣町に行くには、山を
越えなければならない。古代だと、官道が整備される
以前は獣道だけのはず。最初の征服者は、海から来て
崖だらけの使いにくそうな土地を見て回った。
そして、変わった地形の入り江に、印象的な名前を
つけたと思うのだが、どうだろうか‥。
参考文献:
角川 日本地名大辞典 長崎
深堀町郷土史
長崎県の小字地名総覧 草野正一
古代地名語源辞典 楠原 佑介編
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