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地名散歩 戸町(とまち)は、リアスの入江

長崎地名的散歩
06 /21 2020
 長崎市戸町は、長崎港入口に架かる女神大橋の東側。
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 入江の周囲は高い崖に囲まれ、海岸には造船所など、
主に船舶関係の中小の会社が並び、独特の町の景観を
作っている。
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 住宅は、背後の斜面沿いに山の上まで続いているが、
険しい断崖の辺りは自然のまま。
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 山の上は戦後からの開発で切り開かれて、上戸町も
新戸町も賑わい、最近はまた、長崎自動車道に直結する
南環状線も通り、イノシシもタヌキもびっくりだ。

 海を見下ろす丘の上には、立派なマンションが建ち、
チョー、ナウい町になっている。
DSCF9735A.jpg


 戸町(トマチ)は、町制が施行される以前は、
「戸村」では無く、「戸町村」と言った。

 これはつまり、元からトマチという地名であって、
トマチの「マチ」は、タウンでは無い!
いうことだ。

 本来なら地名再編の際は「戸町町」になるはずだが、
町を1個抜いて「戸町」にされている。これでは本来の
地名とは別物ではないか!
一体なぜそんな乱暴な事を
したのだろう。
 佐賀県杵島郡には「大町町(おおまちちょう)」があり
佐世保には「鹿町町(しかまちちょう)」がある。
 戸町も、「戸町町」でよかったのでは?

と思ったが、冷静に考えると長崎市の「 町」は、
チョウではなく、マチと読む。
 「とまちちょう」ならいいが、「とまちまち」だと、
なんか、アホっぽいからか?

 とまちまち ちょっとまちまち とまちまち

 うん、そうか~、納得。 

 さて、戸町の地名由来だが、今回はまず郷土史などの
前情報なしで考えた。どうせ、「おもしろ昔話」ばかり
だろうと思ったからだ。

 まず、「ト」は、両側を山や崖に挟まれた土地である
場合が多い。これは戸町の地形とバッチリ合っている。
 「ト(戸・門)は、港の事」という説もあるが、それは、
昔の港は入江の地形を利用したからではないかと思う。
 すべてとは言えないけれど。

 「マチ」は、田んぼの区画を表す言葉だが、戸町の
狭い谷底に田んぼが広がっていたはずがない。それに、
昔は海がもっと入り込んで、平地があったかどうか‥。

 納得できそうな「マチ」の意味を辞書で探してみた。
  マチ:「はかまの内股の部分に足した布」
 これだろうか?

 いや、そんな臭い布、田んぼ以上に関係なかろう!

 区切りを変えて、トマ・チならどうか。

 地名用語では、トマはトバの転(変化)で、崖の事。
 チは、内のチで、「内側」の意味かもしれない。

 崖の内側。確かに、戸町は周囲を崖に囲まれている。
近辺の町も大抵が山なので、崖地名の所は多い。

 おお、けっこうイイ線いってるのでは?

DSCF9848A.jpg

 ところがその後、長崎市の情報サイトを見てみると、
戸町は古くは「とはち」と呼ばれ、船の停泊地である
門泊(とはち)が、戸町になった、
と書いてあった。

 えーっ?そうなの~?ウッソォ~~ん!

 驚愕の新事実だった!それを確かめるべく、門泊と
いう言葉を図書館のバカデカい辞書でも探してみるが
見つからない。「泊地(はくち)」ならネット辞書でも
出てくるが、これはそう古い言葉ではない。

 「泊(は)つ」という古語は「船が停泊する」という
意味で、万葉集にも記載されている。泊つを名詞化
して「泊ち」にしたのだろうか?
 いや、泊は古い時代には「とまり」と読むのが普通
だったはず。やはり門泊説はちょっと怪しいぞ。

 しかし、いずれにしてもトハチと呼ばれていたのが
事実であれば、
「トマ説」は成立しない。
「はかまの内股の布説」も成立しない。
 
 これで、振りチ‥、いや、「振出しに戻る」だ。
スロットマシンでガッカリ八兵衛の顔が三つ揃って、
山田君に、座ぶとんを全部持って行かれた。
まさにそんな気分。

 さらに、深堀町郷土史を見ると、又々違うことが
書いてあった!
 「深堀文書」によれば、元々「戸八浦」というのは、
野母半島の先端から、長崎港近辺の島までを含む、
広い範囲のことを言ったとある!

 また、現在の戸町は、古くは違う地名であったとか、
古文書では戸八と戸町が混同されていたり、戸八浦を
治めていた戸八氏と深堀氏は、度々領土の取り合いを
したとか、あれこれどれそれ書いてある。

 調べれば調べるほど混乱し、頭の中はマゼラン星雲と
車輪銀河が衝突しまくりで、ハトがポップルル~と鳴き、
10万円の代わりに10万円分のアベノマスクが送られて
きた悪夢で飛び起きたと思ったら、柴犬がわんこそばの
新記録に挑戦していて、もう、何が何だかわからない。



 一旦、情報を整理しよう。

 古文書の話なので、全てが事実とは限らないことを
考慮する必要はあるだろう。

・建長7年(1255年)戦国時代中頃 千葉の深堀能仲が
地頭職に補任され、肥前の国へ来た。
 この時代、戸八浦という地名は、大浦山、貝木、切杭、
鹿尾、棹浦、竹留、高浜、野母、それから、末島、中島、
影呂宇島、香焼島など、長崎港近辺の島々も含んだ、
広大な範囲の総称だった。

・戸八浦は、戸八(戸町)氏という豪族が治めていたが、
深堀氏に奪われる形になる。最終的に戸八氏は深堀氏の
家来になった。

・戦国時代、現在の戸町は「杉浦」という地名だった。
地名用語のスギは、「梳(す)き」で、削ぐ・削るの意味
から崩壊崖の意味と言われる。隣町の小菅(こすげ)町は
古い地名であれば、「小スケ」で、スキと同じく、規模が
小さい崖地
の意味になる。

・杉浦は、争いの末に、2/3を戸町氏、1/3を深堀氏が
所領する事になった。大村郷村記では、杉浦は現在の
戸町1~3丁目、上戸町、新戸町、国分町の一帯
に比定
しているが、それではひとつの入江を共有することに
なってしまう。
 戸町4丁目(女神)も含む、もう少し広い範囲ではないか。
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・深堀氏が本拠地とした現在の深堀町は、戦国時代に
何という地名だったか判らないが、戸八浦に属した。 

・建武5年(1338年)室町時代始め頃、深堀という地名が
記録に出てくる。深堀氏の姓を地名にしたのは明らか。
人名が地名になる例は少ない。よほど自己主張が強い
人物だったのだろう。
 これ以後、深堀浦と戸八浦の混同が見られる。

戸町浦と戸八浦の字も混用されていたが、これは
もっと以前からだったかもしれない。

「戸八」の表記は、やがて「戸町」に統一される。

・江戸時代には、総称としての「戸町浦」は無くなり、
戸町は、杉浦(現在の戸町)の固有名詞になった。
 
・深堀町には「戸泊(とどまり)」という地名があるが、
これを門泊(トハチ)の痕跡地名という記述は見ない。
 この入江の地形は、両側を崖に挟まれた港であり、
地形通りの地名と言える。
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 では、これらを元に、疑問点を解いていこう。

 ◎いきなりだが、トハチとは何か?

 たぶんこれは、至って単純な地形地名で、
「傾斜地に挟まれた、鉢底形の入江」
だと思う。

 戸町の海岸部は、まさにその通りの地形!
tomachi2.jpg
  Googleマップ 3D衛星写真より  

 戸町から、女神大橋を渡った対岸の岬の向こうに、
「木鉢(きばち)」という地区がある。
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深く切れ込んだ入り江の周囲を傾斜地が囲んでおり、
ここも明らかな「ハチ」地形だ。
 木鉢の「キ」は、「険しい地形」の意味をもつ。
kibachi3A.jpg
  Googleマップ 3D衛星写真より

 もしかしたら、これは「戸八(とはち)」の元の意味を
今に伝える「シーラカンス地名」かもしれない。
 
 鉢形の「ハチ地名」は探せばあちこちにある。
東長崎の山の上にある「八峰(はちみね)」も、鉢の
ような形の土地になっている。
hachimine_2A.jpg
  Googleマップ 3D衛星写真より
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 ◎「戸八浦」はなぜ、広い範囲の総称だったか。

 野母半島(長崎半島)の西岸には、周囲が斜面か崖で、
鉢のような形をしたリアス式海岸の入り江が多い。
 これが「トハチ」だと思うのだが、戸八浦に属する
土地の多くが、その特徴を持っている
からだと思う。

小菅町(戸町トンネルの北側) 
 右下は、世界遺産の小菅修船場跡
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蚊焼(かやき・深堀文書では貝木)
DSCF0617A.jpg

野母漁港
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 大浦天主堂が有名な大浦町も、石橋迄の電車通りは
埋め立てであり、むかしは鉢形の入江だったはず。
Ourayama1A.jpg
  国土地理院地図 自分で作る色別標高図より

 この他、香焼町の栗の浦浜と馬手ヶ浦(長浜)、岳路の
海岸、高浜町の野々串港
などもトハチだろう。
 面白いのは、この「トハチ地形」は野母半島の西側に
集中しており、他の地域ではあまり見かけない
こと。

 郡など、広い範囲の地名は、地域の全体的な地形の
特徴を表していることが多い。
 例えば、長崎県の高来(たかき)郡は、多良岳と雲仙岳
周辺の「高い所」を意味すると言われる。


 ◎なぜ、トハチ浦は、トマチ浦に変化したのか。

 古文書で「とはち」と書いてあっても、その通りに
読んだかは判らない。濁点は省略される事が多かった
からだ。漢字なら尚更のこと。
 自分は「とばち」と読んでいたと考えている。
なぜなら、「とばち」の方が、発音しやすいから。
 
 奈良時代頃までは、ハはパ、ファと発音したので、
「とぱち」→「とふぁち」→「とはち」→「とばち」
と、変化していったのかもしれない。
 
 そして、トマチになった最大の理由、日本語の、
「バ行とマ行の交替現象」が起きる。

 けぶり→けむり
 さびしい→さみしい
 さぶい→さむい

 とばち→とまち!

 これは自然に起きる変化らしい。進化か退化かは
知らないが、新しいほどマ行になる傾向だそうだ。
 両方使われ続けている言葉もある。

 深堀文書などで、戸八浦と戸町浦が混用されていた
のは、変化する過渡期だったからではないかと思う。
 聞き間違える場合もあっただろう。


 ◎野母半島西岸の総称だった「戸町」は、なぜ
  現在の戸町の固有名詞になったのか。


 時代が変わり、土地の管理者も変わると、戸町浦と
いう総称は不要になる。逆に邪魔になっただろう。

 行き場を失った「戸町」の地名だが、無くすのは
忍びないので、一番「トハチ」らしい地形の杉浦、
つまり現在の戸町に限定して残したのではないか。

 あるいは、単純にオリジナルの「トハチ浦」が、
杉浦周辺だったとすれば、元々の地名に戻しただけ
ということになる。戸八氏の居城と考えられている
所は、琴平町の金刀比羅神社、上戸町付近、そして
女神大橋そばの大久保山など、広範囲に渡る。

 港の入口を挟んだ対岸にある「木鉢」との関係も
気になる。
 戸町4、5丁目は「女神」と言い、対岸の木鉢の岬
付近は「男神」。これは町を守る為の
呪術的な意味合いがあったのかも知れない。

 と、今回はこんなところ。
DSCF9891A.jpg


 長崎のような半島地形の地名由来を検討する場合、
私などは「海からの視点」が必要だと
考えている。
DSCF7662CA.jpg
  戸町を海から見る。(本当は対岸の西泊から)

 長崎という土地は、現在でも隣町に行くには、山を
越えなければならない。古代だと、官道が整備される
以前は獣道だけのはず。最初の征服者は、海から来て
崖だらけの使いにくそうな土地を見て回った。

 そして、変わった地形の入り江に、印象的な名前を
つけたと思うのだが、どうだろうか‥。



参考文献:
角川 日本地名大辞典 長崎
深堀町郷土史
長崎県の小字地名総覧 草野正一
古代地名語源辞典 楠原 佑介編
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BAキャ レッツ5 普通の人は見ちゃダメ

バカ発進!
06 /10 2020
うろ覚えシリーズ

ミュージカル サウンド オブ サイレンスより

 ドラミの唄

ド~は ドーナツ~の ツ~
レ~は レモンの ソ~
ミ~は 民~度低~い~
ファ~は ファビョ~ンUgaeeEya※a@△ah!!!!!
ソ~は 蒼井 優~  (そっちかーい!)
ラ~は ラッパ~の yo!yo!~
シ~は シリからヘ~  (勝った な‥)
ぶわ! く~さ~い~でしょ~?

カモン!レッツゴー!!

土~耳~ 味~噌噌~ 冷~歯歯~ 裸~珍珍~
土耳 味噌噌 冷歯歯 裸珍珍
土耳 味噌噌 冷歯歯 裸珍珍
素~銅~鑼~歯~見~奴~隷~
騒~動~裸~珍~奴~隷~堂~
ああ く~だ~ら~な~うぃ~~!

ドドソソララソシ ド・ソ・ド! プ!


地名散歩 インゲリ鼻~売串 野母崎 

長崎地名的散歩
06 /03 2020
 野母崎の高浜海水浴場の奥に、インゲリ鼻という
わけのわからない、へんチョコな地名がある。
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 私が自転車少年だった小学生の頃、ワラヂヤの長崎県
地図では、「インケリ鼻」だったと思う。

 明治時代に作成された地図も「インケリ鼻」だ。
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 しかし、どっちが正でも、別にどうでもいいほどの
ウルトラダイナマイト謎地名に変わりはない。
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 砂浜から、石がゴロゴロした海岸を滑ったり転んだり
して、うぁ~ん!と泣きながら渡ると、巨大な一枚岩が
テーブル状になった岸に到着する。
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 岩の表面は、長い長い年月の間に波に削られ、組成の
違いのためか、様々な模様と形状になっている。
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 自然が創り出したなかなかの芸術品だと思うのだが、
観光案内などで見たことはない。


 それにしてもインゲリ鼻とはどういう意味だろう。
 郷土史にも何も書かれていない。

 地名の「鼻・花」は、端(はな)で、突き出した所だ。
海岸の岩場の周辺か、あるいは岬全体とも取れる。

 問題はもちろん、「インゲリ」

 長崎では、犬のことを「イン」と言う。

 「犬下痢」だろうか‥。

 いや、絶対に違うと思う!百円賭けてもいい。

 「犬蹴り」か? ダメだ!かわいそうだろう!
てか、なんのためここで犬をいじめる!

 地名の「犬」は、戌(いぬ)の方角、西北西を指すの
ではないかと以前考えたが、単に「犬が西向きゃ‥」
で、西向きの土地と言われている場合が多いようだ。

 確かに岬は西に突き出しているが、わざわざ西を強調
する理由が思い当たらない。

 犬は忘れよう。


 ハッ!まてよ‥
 「インゲリ」の文字を並べ変えたら‥

 「リゲイン」になるぞ!!

 黄色~と茶色はパ~ンツの汚れ 24日間
 履き続~けまっすっか!!
 ああ、流行ったなあ、懐かしいなあ~。
  (歌詞が違う!歌詞が!)
 
 あ、そっか!鼻の大きなインテリが‥(いねえよ!)

 もしかして、インケリ鼻は書き間違いで、元々は、
「イソケソ鼻」だったのでは?

イヤ、ますますワケわかんねぇ!!
 
 助さん格さん!それくらいでいいでしょう!


 千々石の記事の回に、古代日本の先住民の言葉だと
言われる「縄文語」のことを書いた。
 今回もその線で調べてみたところ、インゲリ鼻という
地名は、とんでもなく古ぅ~い地名だった可能性がある
ことが判った。
 
 北海道に、「遠軽(えんがる)町」という所がある。

 アイヌ語で「インガル」は見晴らしがよいという事
で、むかし、高さが78mもある瞰望岩(がんぼういわ)の
上で敵の部族を見張っていた事が、地名の由来らしい。

 また、札幌にある藻岩山(もいわやま)は、アイヌ語で
インカルシペと呼ばれ、やはり眺望のよいところ。


 アイヌ語辞書の類いを見ると、インカラ、インガラ、
インカルも同じで、眺める・見張りをするという意味が
あるそうだ。

 インゲリ(インケリ)は、それらの派生・変化なのでは
ないかと思う。まず、音が近い。
   i・n・ga・ru  i・n・ge・ri 


 つまり、インゲリ鼻は古代人が海の見張りをしていた
場所
だったのではないか。と考えた。
DSCF7834A.jpg

 土地の状況はどうだろう?

 インゲリ鼻の、岩場の先端まで行ってみると、北は
香焼(こうやぎ)島から深堀、島の間には西彼杵半島の
三重付近や西海市までが、マッポーシ見渡せる。
 南は、野母半島の先端まで見え、岬を回ってくる舟も
いち早く発見できる。
 西は、軍艦島などの向こう側は東シナ海の大海原だ。
背後の山に登れば、五島列島さえ見えそう。

 どう考えても、見張りに適した所だ。


 自転車で、山の上まで登ってみた。
  
 何か楽しそうな木陰の休憩用デッキ。
DSCF7778A.jpg
 ここで水着のおね‥いや、美しい砂浜を見ながら
ビールを飲んだら、さぞウマかろう!


 岬の先端部の上の方は木が茂っていたが、おおむね、
予想通りの眺望だった。
DSCF7784A.jpg

DSCF7788A.jpg

 今のところ、地名が似ていて眺めがよいということ
だけで、考古学的な遺物が出土している訳ではない。
単なる自分の空想だ。

しかぁし!
 
 「古代日本語」らしき地名は、インゲリ鼻がある高浜
から、野母半島の尾根の上にあるゴルフ場を越えた東側、
岬木場(みさきこば)の集落にも存在していた!
urugishi01A.jpg
     googleマップ 3D衛星写真より  32.609301, 129.821624

 小字地名の、「売串(うるぐし)」

 日本語として明らかに不自然で意味不明だ。

 「うるぐす」なら、江川卓の「SUGURU」を逆から
読んだものだが、「URUGUSI」を逆から読んでも、
「いすぐる」で、やっぱし意味わからん。
  (読もうと思うな!)

 「串」のつく地名は、海岸の崖地でよく見かける。
 島原半島の北串山・南串山、西海町の大串郷、川棚町
の小串郷、和歌山県の串本町など。
 地名の串は、崖地である場合が多いが、実際の意味は
ハッキリしないらしい。

 実は、インゲリ鼻のある山のすぐ北側に、野々串という
漁港の地区がある。高浜から低い丘を越えたところだが、
よくわからない点があるのでまだ調査中。


 アイヌ語だとウルは丘。クシは越えた所。
「丘を越えた所」となる。

 西側の海岸集落から見て、尾根を越えた場所という
意味でつけられたと想像できる。

 その可能性が、どれほどあるのか考えてみた。

 ・どこから丘を越えたのか?

 地図を見まくり、現地をウロウロ徘徊して考えた結果、
インゲリ鼻のある高浜か、少し北側の以下宿(いかやど)
あたりが自然な気がした。古代に集落が存在した生活の
拠点であり、正面玄関になる所。

 ・丘を越えた売串は、どういう所だったか?

 野母半島の東側の海岸は、断崖絶壁の所が多く、海岸に
出られる所は限られている。岬木場集落の下方、売串から
は、畑のそばを通って海岸へ出られることを確認した。
DSCF8991A.jpg
 東側の海岸へ行く勝手口的な場所ではないか。

DSCF8990A.jpg

 ・この岩だらけの海岸で何をしていたのか?

 よその土地を通らず、山をショートカットして、ここの
海岸から舟を出し、東長崎方面、島原半島、天草周辺まで
渡り、交易等をしていたのではなかったか。
DSCF9033A.jpg
 天草の富岡なら、ここからが一番近い。


 売串という地名は、江戸時代の古地図にも載っており、
海岸の辺りに「うるくし」と書いてある。むかしはもっと
広い範囲を売串と呼んでいた
のかもしれない。
urugushi_edo01A.jpg
     野母崎町郷土史より 
 地図には、脇岬の観音寺辺りから売串の海岸へ続く道が
描いてある。江戸時代も、ここから舟を出していたように
思える。 

 しかし、意味不明なインゲリ鼻という地名が、本当に、
古代から現在まで変えられる事なく伝えられたとしたら、
それはなぜだろうか。

 古地図と今の地図を比べると、山や小島の名は、結構
コロコロ変わっていることが判る。
 ひとつには、農地で無く、人も住まない所は、地名に
ついての管理が緩かったからと思う。
 なので、地元の者の意見で名称を変える事もできた。

DSCF8985A.jpg

 インゲリ鼻などは、海岸の岩場で特に使い道は無いが、
変える理由もない。何よりインパクトのある名称なので、
場所が特定しやすい。海洋民の目印だったのなら、逆に
変えにくかった
はず。
 そういう訳で、奇跡的に残ったのではなかろうか。

DSCF7792A.jpg

 場所はだいぶ飛ぶが、大村空港が建設される時に埋め
立てられた「ガロウ島」は、アイヌ語で「岩だらけの島」
という意味になる。
 大村郷村記の記述を見ると、確かに大きな岩がゴロゴロ
した島だったようだ。これも古代からの名称かもしれない。


 古いアイヌ語と琉球語に共通点があるなら、古代九州の
言葉と似ていても別に不思議はない。古代人の航海技術は
想像を遥かに超えるものだったと、最近は言われている。
DSCF7929A.jpg
    (以下宿町 夫婦岩)

 古代の言葉の伝播とか変化とかについては、そのうち
AIとやらが明らかにしてくれるのではないかと思う。
 
 OK!シリクサ! 楽しみに待ってる。 
 

 

地名散歩 日泊 大村市三浦 

長崎地名的散歩
06 /01 2020
 諫早から大村へ車で向かう際、大村湾沿いの山に
カーブとアップダウンが続く、県道のルートがある。
miura_zenkei2A.jpg
  Googleマップ 3D衛星写真より

 県道が何号線なのかを知る人は多分、少ないと思うが、
「三浦を通る」と言えば、ほぼ誰にでも通じる。
DSCF8608A.jpg

 いわゆる「抜け道」であり、以前はゆっくり走ると、
ヤンキーのバCARに煽られた。初心者は、怖ろしさに
カーブの途中で急ブレーキを踏み、慌てたヤンキーが
ハンドルを切りそこなって崖の下に落ちればいいのに、
と思うような道だった。道幅も狭かったので、対向車が
来ると、崖から落ちて譲ってくれればいいのに、と思う
ような道だった。(ハーイ!そこまで!)

 最近は道幅も広くなって適度に通行量も増え、休日は
普通に走れるようになった。通勤時は知らんが‥。

 ここは海沿いの土地全体が三浦という農村地域。
大村湾に映える夕陽がきれいな事もあり、近年は金持ち
さんの別荘のような住宅も増えている。
P8280301A.jpg

 三浦は、昭和初期までは「三浦村」と呼ばれていた。
蔦川内・日泊・溝陸の3つの浦がある事が由来らしい。

 今回の日泊(ひどまる)地区は、その真ん中辺り。

 えっ?「ひどまり」じゃなかと?

 私がそう問い返したのは、つい数年前のこと。
半世紀近くに渡り、ヒドマリだと思っていた。

 は普通、トマリと読み、船の停泊地の意味だ。

 だがここは波風の穏やかな大村湾で、奥からすぐの所。
大村城下からも遠くはない。手漕ぎ舟でも停泊地にする
理由が全く考えられない。
 「泊」は当て字なのだろう。

   集落の中心部 農協の直売所は、けっこう人気がある。 
DSCF8633A.jpg


 長いことダマサれていたので、大村市に賠償金を請求
したいが、市役所のどこに電話すればいいのか。
「地域げんき課」だろうか?

 まあ、今回は、ドロリゲスに免じて勘弁してやろう。 


 港と言っても、ナマコ漁用と思しき小舟が数艇。
DSCF8624A.jpg

 海岸のエビス像は、風化して何なのか不明!
DSCF8618A.jpg

 と思ったら、新しいのが別のところにあった。
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 さて、「ヒドマル」とは何のことか。

 日の丸と似ているが、鼻がつまっている感じなので
おそらく関係ないと思う。 (そんな理由でか!)

 美女丸、ヨジマル、じゃじゃ丸、すし若丸、
 歌丸、オマル、華丸、大吉、ピョン吉、
 イカン!どんどんはずれている!


 「泊」には「淡泊(淡白)」など、サッパリしている
という意味もある。泊が当て字でないとしたら、
「日がサッパリして‥」

 いや、絶、対、違うし!!


 というところで、地図の神様が降りてきた!

 もしかこれって、地形地名だとしたら、 
「日留まる(ひどまる)」なのではないか?

 ここは、南西が大村湾側に開け、北東は背後の山に
遮られている。大村湾は内海で波も静か。
miura01A_2020060119545521a.jpg

 つまり、日当りがよく、冬も北風を避けられ暖かい、
「姥の懐(うばんつくら)」地形だ。

 日留まる(ひどまる)は「日照時間が長い所」となる。

 だが、日当(ひあて)や、それに似た地名なら見るが、
日留(ひどまる)なんて地名が他にあるだろうか?

 ネット検索しても、そんな地名は出てこない。少し
自信がなくなったが、灯台モトクロスだった。

 長崎市中里町に、かなり近い地名を発見!
 小字地名「日溜(ひだまり)」
hidamari01A.jpg
     Googleマップ 3D衛星写真より

  山の斜面が南西側にVの字に開けている。
 これは暖かそうだ。輻射熱で暑いくらいかも。


 「日当りヨシ地名」には、それに対するような
「日陰地名」が地形の反対側にあることが多い。

 日泊の場合はどうか?

 探すまでもなく、日泊集落、中心部山手の斜面地に、
「陰平(かげひら)」という定番地名があった。
 なるほど、ここだけは日陰になりそう。
miura01B.jpg
 ぬくぬく地名の中に日陰地名を含むのは珍しい。
 当たっていればの話だがネ。
 

 今回は、日泊が「なんか気持ちのよい土地」
漠然と感じていた理由がハッキリして、よかった。
DSCF8631A.jpg

 大村市は若い市長がいろいろ頑張っていて、発展も
目覚ましい。三浦地区も以前より賑やかに見える。

 ポカポカした日泊には、分譲住宅地もある。バブル期
には、海岸に企業の保養所らしきものもあったと思う。
この周辺も、いずれ開発が進むのかもしれない。 
DSCF8638SA.jpg
 
 その前に、のどかな自転車散歩を楽しんでおこう。 

Ramblingbird

長崎南部の自転車散歩やどうでもいい出来事を、小学生ギャグを交えて書き散らします。お下劣な表現を含みますのでご注意下さい。