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菜ノ花とサクラ咲く白木峰へ

日々の事
03 /25 2021
昨日は有給消化で、午后から夫婦で白木峰高原へ花見に出かけた。
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待って!ちゃんとするから帰らないで!

春の霞んだ雲仙と干拓地をバックに、菜の花と桜。
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平日なのに、けっこう人は来ている。

夢中で一眼レフカメラを構える高齢者も多い。三脚まで担いで。
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これはいい趣味。歩き回るので健康にもいい。

桜もなかなかの老木になった。
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じゃが、まだまだ若い木には負けんぞい!
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丘の上には、相変わらずの謎のオブジェが鎮座。
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これは、塗装やサビをはがす、スクレイパーだろうか?芸術はよく解らない。
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で、それがどお~~しても、写真に写ってしまう。
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観光客を呼ぶつもりなら、もう少し高原の風景にマッチするものに‥ 

ベンチに座って眺めれば、もう春のうらぽか陽気。
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時々、風がふわあと吹き抜けていく。
気持ちンよかぁ~~!

天気予報の通り、だんだん雲が広がってきた。
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やっぱり人間、心に余裕がないとダメ。
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あと何年働けば、自由の身になるのだろう。
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ああ、このストレスだらけの理不尽な世界を、笑って乗り切りたい! 

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諫早のえべっさんを追加  

古かもん見てさる記
03 /22 2021
 たわしが住んでいる諫早市は、昔、佐賀藩の領地だったからか、海岸地域や城下では、えびす神が盛んに祀られていた。
 えびす神は、釣り竿を持って鯛を脇に抱えているように、元は豊漁の神だった。それがいつの頃からか、商売繁盛の神、福の神として広く信仰されるようになった。
 諫早では、えべっさんと呼ばれ親しまれている。
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 えびす神の成り立ちは諸説あるのだが、豊かな異世界から訪れて幸をもたらす「来訪神」であることに間違いはなさそうだ。

 2018年、諫早市内にある210体のえべっさんを調べ、その写真と所在地をまとめた「諫早のえべっさん辞典」という本が、諫早えびす研究会という有志の手によって出版された。
 連綿と続いた民衆の習わしが急激に失われている今、こういう記録を残す取り組みはとても喜ばしい。

 早速、書店へ向かい、そのまま通り過ぎて図書館で借りた。(買えよ)
 自分も結構、市内のえびすさんは見ているつもりだったが、知らないものも多く、大変参考になった。

 著者の諫早えびす研究会は、今後のネット上での展開を予告されていたので、続編を待っていたが、現在は検索しても活動が確認できない。

 と、いうわけで、今回は「諫早のえべっさん辞典」に記載がなかったえべっさんを、わしの写真ラバトリーの中からご紹介するだに。 

 久山町 久山港改修の際に新しく作られた、えびすさんと大黒さん
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 多良見町木床 舟津の祇園さん近く 道路沿いの民家
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 多良見町東園 海の中のカーブした線路内にある漁港近く 酒店の隣り 
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 津水町 熊野神社内 町内に祀られていたものか 
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 ここは大村との藩境の地 キリシタンに破壊されたのかも 

 宗方町の下溜池の堤防 水神さんと共に祀られている
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 なぜか、石の高い台座の上に‥
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 山の中でも、水がある所にはえびすさんが祀られる事もあるという例

 有喜漁港の前 大きな八大龍王像の所
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 以前も紹介したが、諫早では珍しい双体えびすも        
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 諫早のえべっさん辞典では、双体えびすは、えびすさんと大黒さんのコンビとあったが、ここはどちらもえびすさん。言うなれば、ステレオえびすだ。

 有喜漁港前の道路に面した民家
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 笑顔が最高

 そして、これは一番のお気に入り!
 小長井町 牧 三夜さん近く 民家の石垣の上
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 えびすさんに見えるのだが、鯛がよく確認できない。逃げたのだろうか。

 えびすさんは、ある所には幾らでもあるので見過ごしがちになるが、よく見るとそれぞれ個性があり、味がある。でもやっぱり、自分もつられて笑ってしまうような、思いっきり笑顔のえべっさんがいいね。
 
 

地名散歩 松浦市 御厨(みくりや)

長崎地名的散歩
03 /20 2021
 長崎県北部の松浦市は、アジの水揚げ量が日本一を誇る水産都市。
 旬(とき)アジが名物で、アジフライの聖地と自称するほど。考えただけでも、ジュルリ‥ゴキュ! よだれかけが必要だ。
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    松浦市観光情報ガイド 松浦の恋

 松浦市は昭和30年の市制施行の際、公募で「淀姫市」になるはずだった。しかし、ここは往古、隣りの佐賀県伊万里市・唐津市エリアと共に、海の武士団「松浦(まつら)党」の一族が活躍した土地。その歴史を尊重して「松浦市」に決まったということだ。
 佐賀県民からすると、抜け駆けされたような格好になり、「ま~た、あいどみゃ大風呂敷ば広げてばい!」と批判の声が上がったらしい。
 まあ、そりゃそうだろう。
 最近、建設中の長崎新幹線の整備方式と負担金を巡って佐賀県知事がゴネていると言われた件は、実際は長崎側の勝手な判断と先走りが原因だと判明した。自分は、松浦市命名時のエピソードを思い出し、なんかスイマセ~ンという気分だった。
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     松浦火力発電所

 その松浦市に、御厨(みくりや)という町がある。

 御厨(みくりや)とは、古代に神様にお供えする料理を準備した建物の事。後には、その食材を調達するために置かれた各地の荘園(しょうえん)も、そう呼ぶようになった。
 御厨町の由来を調べると、伊勢神宮の荘園だったからと書いてある。
 ここはアジを始め、海産物の宝庫!なるほどそうだったかと納得しかけたが、いろいろ読むと、どうも話が一致しない。
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   港には、近くの島へ渡るフェリー

☆情報を整理しよう。
・御厨は、伊勢神宮の荘園だったため、御厨という地名になった。
・伊勢神宮の荘園と言うが、証拠は無く、実際はどこの荘園か判らない。
・肥前国松浦郡に置かれた宇野御厨荘(うのみくりやしょう)は、平安時代初期、現在の福岡、佐賀、長崎にわたる広大な範囲だったが、平安末期からは、上五島を含む、北松浦周辺に限定されていった。
・御厨町は、宇野御厨荘の中心地なので、御厨という地名になった。
・現在の御厨町は、宇野御厨荘の一部とも、別であるとも言われている。
・古くは「三栗野」や「御厨屋」と書いてミクリヤと読んだという記録がある。
 何が本当で何が本当でないか、よく考えなければならない。

 疑問点
・御厨荘の中心地だからと言って、その一村落に「御厨」という地名をつけることが可能だったのか。
・御厨荘が無くなったあと、御厨という地名をつけたとしたら、その動機はいったい何か。
・古代から良質な海産物が捕れたとしても、新鮮なまま都(京都)まで送ることができたのか。加工しても価値があったのか。農産物だった?
・ミクリヤは、初音ミクや逃げ恥のミクリさんと何か関係があるのか。
・もしかして、ミクリヤには別の意味があるのではないか?

 フーム、これはどうやら、地名特捜班3係の出番のようだね。 
 まず、ミクリヤを分解。ミ・クリ・ヤと分けるのが日本語として自然だろう。
 先頭のは、地形地名では大抵が「水」または「3」を指す。
 クリは、「刳り(抜く)」。
 は、「谷」「湿地」が多い。
 「水がくり抜いた谷や湿地」という解釈が成り立つ。

 さて、実際の地形はどうだろう。
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 おお!合ってんじゃーん!!
  
  確かに、御厨町周辺に広がる溶岩台地のあちこちに、雨水が刳り抜いたに違いない侵食谷が並んでいる!
「ミクリ」だ!
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 いきなりだご、いや、いきなりだが、これが答えではないのか?

  さらに、長崎県の小字地名総覧で、御厨町の中心部に近い台地の上方、寺ノ尾免に、「水繰(みずぐり)」という地名を見つけた。
 おいおい、これは「ミクリ」とも読めるぞ!!
 
 水繰とは、日本古来の木造建築で、石の土台と壁の横木が接する部分に狭いすき間を設けることにより、木材への雨水の吸収を抑えて長持ちさせる技法。
 何かそんな感じの地形なのか?とGoogleストリートビューを見るが、さにあらず。しにあらず。すにも、せにもあらず。
 う!ココもやはり、台地の斜面を水が削って出来た、「水刳り(ミクリ)」地形。ひらけた野に、幾重にも重なった田んぼの畦が、美しい弧を描いている。
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 ミクリに「水繰」と当て字をしたため、読み方も変わったのではないか。

「クリ」のつく地名は各地にあり、大抵が刳り抜いたような地形になっている。
・長崎市香焼町 栗の浦 海岸でよく見られる、丸く囲まれた地形。
  32.689893, 129.793741
・大阪府枚方市 三栗 淀川に支流が流れ込む低湿地だった所。
  34.837459, 135.659197
・諫早市小川町 小栗(おぐり) 山の尾根が大きくえぐれたよう。
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  32.830486, 130.062067
 
「栗谷(くりや)」という土地の地形は、やはりほぼ「刳り谷」になっている。
・川崎市多摩区 栗谷 傾斜した台地に谷が彫り込まれている。
   35.611229, 139.537057
・東京都町田市金井 栗谷 
   35.578386, 139.469927
静岡県の御殿場は、昔は御厨(みくりや)という地名で、何本もの川が集まって流れる氾濫原。川が深く彫り込まれている。
 水が刳った湿地「ミクリヤ」だったのかもしれない。

 ミクリヤ地名は、本当に御厨荘に由来する場合もあるだろうが、地形由来の可能性もありそうだ。
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    姫神社 伊勢神宮の分霊として天照大御神を祀る。

 では、松浦市の御厨(みくりや)という地名の成り立ちを想像してみよう。
 ポワワワ~~~ン
 最初は、溶岩台地を水が侵食した地形に「ミクリ(水刳り)」という地名がつけられた。なだらかな傾斜の台地が続く所は、「ミクリノ(三栗野)」と呼ばれた。

 この近辺も含む、かなりだだっ広い範囲の荘園は「宇野御厨(うのみくりや)荘」と呼ばれていたが、やがて衰退し、範囲が限定されて行った。

 当時のミクリノの長は、「ミクリノはミクリヤと似とるせん、三栗野の「野〜」「ヤ〜」て読ませて、ミクリヤに変えられんやろか」と考えた。
 ここが「御厨の中心地だった」ということになれば、ステータスとなり、ハクがつく!イよっしゃあ!

 それで、検地の際、周辺の村々に抜け駆けして、「ここは元からミクリヤた~い!」と言い張り、ミクリヤに改名したのかも知れない。

あれぇ、どこかで聞いたような‥

南島原市の猿石(さるいし)

古かもん見てさる記
03 /11 2021
 南島原市の有家町周辺には、「猿石」と呼ばれる謎の石像があちこちに祀られている。いや、「猿岩石」ではない。
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 布津町郷土史より

 確かに普通の石仏や神像とは違う、異形のものだ。

 しかし、と聞いちゃあ、放っておけねえ。これは一丁、調べてみるか。
「行くぞ、股八」「へぃ、親分!」 

 猿石とは元々、奈良県明日香村の畑から掘り出された数体の古い石像のこと。猿石の名は、動物的で呪術的で異国的でミステーリアスガールな、その外観によるものだ。
飛鳥資料館 猿石 ←リンク

 南島原市の猿石の場合は、調査した大学の先生が、明日香村のと似ているので猿石と名づけたらしい。ただ、資料によっては、「石人(せきじん)」とも書かれていてややこしい。

 大体、すべてのものを「猿石」とひとくくりにしているが、その形態は一様でなく、大まかには次のように分類できる。

①弥勒(みろく)さんや羅漢(らかん)さんと呼ばれる、ずんぐりした胴体に平面的な顔が乗り、手足の表現が無いもの。
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②頭部は立体的で、手足があるもの。中には男根の表現、つまりチ◯コ付きと言われるものもある。
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 弥勒さんと呼ばれる前者は、韓国の弥勒寺跡にあるものとよく似ており、弥勒信仰を通じた朝鮮半島との繋がりを示唆すると言う。
 56億7千万年後に地上に降臨し、迷える衆生を救うとされる弥勒菩薩は、広隆寺の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)のスマートなイメージが強いが、姿は国によってまちまち。

 韓国では頭がデカい三頭身の姿とされ、大きな石像がある。中国では、まんま七福神の布袋(ほてい)さんの姿であり、日本でも一部に取り入れられている。(布袋さんのモデルは、中国の実在の仏僧)

 南島原市の「弥勒さん」は、体形的には布袋さんの肥満体型を表しているようにも見える。顔が猿に似ているのは、ぜい肉の表現かもしれない。
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 後者になる、有家町寺山地区の二体は、布津町郷土史によると、発見時、「姿は地蔵のようで、顔は鬼面のようにも見える。大きい方は、たくましい男根がそそり立っていた」という。
キャーッ!

 性神は、普通、チ◯コそのもののフィギュアを、子孫繁栄、五穀豊穣を祈って祀る。しかし、日本の神仏像にチン◯がついたものは、温泉街のお土産以外では見たことがない。

 いずれにしても、写真では、たくましさやそそり立ち具合が判らないので、早速現地へ行ってしげしげと観察することにした。

 案内の看板を辿って民家の庭先を横切ると、妙香古墳という遺跡があり、二体の石像はその上の祠堂に並んでいた。
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 う~ん、本当にチ◯コか?位置がずいぶん体の中心からずれているが‥。

  こ~んな感じ?
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 いやもしかしてこれは、着物を着て右腕を水平にし、左腕を垂直にしているのではないか?小さい方も同じように見える。
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だとしたら、いったい何のポーズだろう? 

ハッ! まさか‥

スペシウム光線??
いや、違う、そうじゃない。
これは、背中に何かを担いでいるのだ!

ということは、
サンタクロースか!
何となくだけど、たぶん違う‥。
 
もしや、袋を担いだ布袋さん?
いやいや、こんなスマートな布袋さんはいない。

わかった!ドロボウじゃあ!
ンなわけあるかーい!

(さあ、もうそれくらいでいいでしょう)

この石像は、宇迦之御魂神(ウカのミタマのカミ)だと思う。

 ウカの神は、お稲荷さんの事。
 食物の神であり、稲束を背中に荷なった(担いだ)姿で描かれることが多い。
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海宇工芸館 宇迦之御魂神像

※つまり、こうだったのではないか?
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 お稲荷さんは、よくキツネの姿だと誤解されるが、キツネはお稲荷さんの眷属であり、お使い役。乗り物になっていることもある。

 石像の顔をよく見ると、あごの部分は伸ばしたヒゲにも見える。小さいほうは笑っているようだ。これは、福を呼ぶ老人の顔だろう。
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 東アジアの神は、白髭のある老人の姿で描かれる場合がとても多い。この共通イメージは、民衆の神が、元々は自分達を見守ってくれる長老であり、先祖だったからかもしれない。

 これがお稲荷さんだと思うのは、稲を荷なう格好だけでなく、この地が、古くからの稲荷神社という事実があるから。
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 そして、ここにある一番新しいお稲荷さんの神像も、しっかり稲束を荷なっている。
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 つまり、目の前に答えがあったということだ。

たぶん、二体の石像は、古い時代の稲荷神で、大きい古いほうが傷んできたので、小さいほうにリニューアルされたが、こちらも傷んだので現在の新しいものに替えられた。古い二体は「魂抜き」をしても粗末にはできないので近くに並べてあったが、世代が変わって忘れられていった。
 
 そういうことだと思う。思うのは自由なので、違っていても知らんばってん。

 それから、布津町の猿石を見に行った。

・木場原のものは「弥勒さんタイプ」だが、体全体が傾いており、よく見ると左肩の部分が右に比べて明らかに盛り上がっていて、重いものを担いでいるようにも思える。
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 洗いすぎなのか、郷土史の写真よりだいぶすり減っているようだ。

 そして珍しい事に、胸に文字か記号が彫られている。*アスタリスクのようだが、摩耗して明確ではない。
 「水なら水神。*なら、隠れキリシタンの聖記号」という学説が布津町郷土史に書かれていた。しかし、その「XIモノグラム」は、古代キリスト教のもので墓碑銘に彫られる記号らしい。ちょっと納得できない。

 「米」ではないかと思ったのだが、横棒は見えない。しかし、は元は「禾」と書き、元になった象形文字は、下の通り。
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 これは、実って穂を垂れる稲の形を表している。この茎に実がついて、米の字になる。記号がもし、先祖から伝わった稲のイメージであれば、食物の神様に違いない。
 あるいは、*コーモ‥  いや、なんでもない。

・尾篠(おざさ)集落のものは、場所の情報が無かった。神社と公民館を回った後、適当に歩いてやっと軽トラに乗った住民を発見。民家に入るのを追いかけ、「ハアハア、猿石て、どこらへんにあっとですか」と聞いた。

 庭にいたご夫婦は、「そいそい!」と、わたしの右斜め後方に当たる、塀の内側を指差した。
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 なーんと、集落で最初に訪ねた家の庭に、大事に祀られていた!こういう不思議な事はたびたび起きる。サンパー(散歩人)も、年季が入ってくるとレーダーが備わってくるのだろうか?

 布津町郷土史の写真では、胴体部分がえぐれたように凹凸があり、例によって「男根のある猿石」と紹介されていた。胸の辺りの丸い部分が「先っちょ」ということか。
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 しかし、現物を見ると、石の中にある石塊が、風化によって出てきたようにも見え、加工したのかどうかよく判らない。奥さんの話では、元の形とはだいぶ違っていて、「水で洗うたびにだんだん削れていったとやもんねアハハハ」ということだった。

 あらゆる角度から見ると、姿勢は前かがみで傾き、肩の張り出し方は左右で大きく異なって、背中も盛りあがっている。
 重いものを担ぐと、バランスを取るため体は斜めになる。木場原のものと同様、たわわに実った稲を担いでいるのだと思う。
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 今回、現物を見れなかった2体の写真も、左肩に何か担いでいるように見える。
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 では、まとめましょ。   
 現時点の結論は、これらの石像の大半は、猿でも人でもなく、農業神。お稲荷さんであるウカの神だと思う。

 造形が巧みで無いのは、作ったのが専門家ではなく、農民だったから。それは石工に頼む経済的な余裕が無かったからではないか。
 百姓に絵心などあるはずもなく、集落ごとに一番器用な者が、少ない情報と記憶によって手探りで作ったものと思う。
 
 石像がことごとく摩耗しているのは、素人の腕と道具でも加工できる柔らかい石を使ったから。

島原の乱が起きた一因として、当時の半島南側の農民は、溜池を作る技術が無くて収穫量を得られず貧しい暮らしが続いた。藩主は助けるどころか搾取しまくりで、異国の神にも頼ったが変わらず、ついに決起したと聞く。

 石像が、一揆の前という前提だが、具体的な改善の方法を知らない農民は、ただ働いて働いて、あとは神に祈るしかなかった。

 石像は、そういう厳しく必死な生活の記録なのではないか。そんな気がする。
 
 これが、そこそこ核心に近づいているか、大きく外しているかは、判らない。
 ただ、昔の人が作ったものの意味を知るには、何に似ているかばかりにとらわれず、誰が、何を求め、どういう気持ちで作ったかをよく考える必要があるのは、たぶん間違いない。 



地名散歩 布津(ふつ) 南島原市

長崎地名的散歩
03 /03 2021
 南島原市布津(ふつ)町は、雲仙岳南東の緩やかなすそ野に広がる田園地帯。
 
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対岸に肥後熊本を望む有明海の浜辺には、小さな漁港が点在する。
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 ユニクロも外食チェーンも、有名なドラッグストアも無いけれど、雲仙普賢岳をバックに広がる空の下、気分も大らかに過ごせる所だ。※ダイソーはある!
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 布津の地名の由来については、納得できそうな説を聞かない。調べてダメなら考えよう。 

「ふつ」は、物が切れる音や様子を表す古い言葉だ。

ふつと
ふつに
ふつりと
ふっつりと糸が切れる
ふっつりと更新が止まった散歩記‥ (^_^;) ← おっさんぽい顔文字

 日本書紀に登場する、経津主命(フツヌシノミコト)という戦闘神の名は、刀を振った時のフッ!という風切り音に拠るもので、刀剣を神格化した神とも言われている。

 千葉県富津(ふっつ)市の地名は、東京湾入り口に突き出した細長い岬が、鋭い剣のように見えるため、フツヌシに因んでつけられたという説がある。
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  国土地理院地図より

「ふつり」は、現在では、プツリ、プッツンと言うが、古代日本では、ハ行はパピプペポと発音したので、元々は「プツリ」と言っていたかもしれない。

 ちなみに、グリコのプリッツは、プッツリと噛み折るからではなく、西洋のプレッツェルというお菓子が由来であり、残念ながらプツリとは無関係。ポッキーの方が、「ポキッと折る」からだそうだ。
 わざわざこれを書くのは、「プリッツはもしかして?」と、調べたが違っていて悔しかったからでは、決してない。


 フツ地名のその他の可能性としては、湯や水がふつふつ沸く(湧く)、という意味のフツがある。布津町にも小さな湧水は所々にあるが、湧水でフツという地名も聞かないし、それが土地全体を表わす地名にまでなったとも考えにくい。
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 いろいろ慎重かつテキトーに調べてみたが、布津という地名は、やはり断ち切るという意味の「フツ」が由来だろうと、たわしは考えている。

なぁ ─── んでかっ!

それはね~ それはね~

 布津町は、雲仙岳中腹から海岸まで続く「布津断層」の崖の段差で、土地が左右に、フッツリ!と断ち切られているから。
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  Googleマップ 3D地図より

 千葉県富津市の岬も、古い航空写真では、岬から離れた小島まで砂州が伸びており、東京湾入口を、内外にふっつりと分断しているとも言えそうだ。

至って単純な理由だが、地名を決める動機としてはじゅうぶんアリだと思う。

じゅうぶんアリと言っても、アリの種類じゃあないんで、昆虫図鑑を探しても無駄ですぜ、旦那。


 布津の断層は、島原半島の中央部を東西に走る
「雲仙地溝(うんぜんちこう)」の、段差のキワに当る。
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 間違って、雲仙恥‥  いや、何でもない。

 Googleの3Dマップを見ると地形の状況がよく判るのだが、布津断層全体を見渡せるような高い場所が周辺に無く、通りすがりの者は、その特殊な地形にはちょっと気づきにくい。
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 となり町の深江町との境界部分には「深江断層」があり、崖の上側が布津町。そこから1kmくらい先に、布津断層が並行に並んでいる。つまり、布津は大きな段差が二つもある、階段状の丘という事になる。

 島原半島は、雲仙岳を中心とした火山島のような地形であり、山から海岸まで尾根が長く伸びている所が各地にある。半島西側の海岸は、千々石(ちぢわ)断層を始め、高く垂直な崖が続いていて壮観だ。

 しかし、大きな段差で土地が左右に断ち切られた地形状況は、布津の他には見当たらない。

 そういう、フッツリと切られた土地なので、フツと呼ばれたのではないだろうか‥。
 いうのが、今回のお話しじゃったげな。 そいばっかい、ばんねみどん。


 ついでに、布津町近辺で見つけた、変ちくりんこな小字地名を見てみよう。

・鼾野(いびきの) 布津町坂下、貝津
  32°41'37.5"N 130°20'00.5"E

 旅人がこの土地を通ると、原因不明の睡魔に襲われて眠りこけ、ンガグォオ~と高鼾をかくわけではない。 
 「井」は水のこと。”井引き野"で「水を引き込む野っぱら」となる。
 ここは両側を谷川に挟まれた高燥な丘の上で、通常は水が無い。農業用水・生活用水を確保するため、傾斜地の高低差で川から水を引き込むトイ、「井樋(いび)」を設置した所ではなかったか。

・納豆(なっとう) 布津町貝津
  32°40'55.1"N 130°20'38.7"E

 斜面地の畑の真ん中にあり、本物の納豆と関係がありそうな、なっとうくのいく答えは見つからない。
 ああそうさ!つまらないさ!!
 「トウ」は地名では池や堤防のことを指すことが多い。現地をよく見ると、どうも一部が池だったような一画があり、そのすぐ下からいきなり水路が始まっている。湧き水や雨水が溜まる場所だったのではないか。そして「ナツ」は「泥(なず)み」で、泥水の溜まったような池「ナツトウ」だったのかもしれない。

・弁当場(べんとうば) 深江町古江
 32.712526, 130.330915

 深江断層上方の森の中。畦別当(あぜべっとう)の回でも弁当という地名があったが、ここもやはり地形的に「隠れて見えない土地」であり、「ベットウ」の変化と思われる。


 布津町は、島原半島の中でも、高速道路の諫早ICから一番遠い位置にある。後継者不足で衰退する農業・漁業に替わる産業が必要だが、その不便な立地のため、企業の誘致も進まないと聞く。

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 建設中の、島原道路の早い全線開通が待たれる。

Ramblingbird

長崎南部の自転車散歩やどうでもいい出来事を、小学生ギャグを交えて書き散らします。お下劣な表現を含みますのでご注意下さい。