南島原市の有家町周辺には、
「猿石」と呼ばれる
謎の石像があちこちに祀られている。いや、
「猿岩石」ではない。

布津町郷土史より
確かに普通の石仏や神像とは違う、異形のものだ。
しかし、
謎と聞いちゃあ、放っておけねえ。これは一丁、調べてみるか。
「行くぞ、股八」「へぃ、親分!」 猿石とは元々、奈良県明日香村の畑から掘り出された数体の古い石像のこと。猿石の名は、動物的で呪術的で異国的でミステーリアスガールな、その外観によるものだ。
飛鳥資料館 猿石 ←リンク
南島原市の猿石の場合は、調査した大学の先生が、明日香村のと似ているので猿石と名づけたらしい。ただ、資料によっては、
「石人(せきじん)」とも書かれていてややこしい。
大体、すべてのものを「猿石」とひとくくりにしているが、その形態は一様でなく、大まかには次のように分類できる。
①弥勒(みろく)さんや羅漢(らかん)さんと呼ばれる、ずんぐりした胴体に平面的な顔が乗り、手足の表現が無いもの。

②頭部は立体的で、手足があるもの。中には男根の表現、つまりチ◯コ付きと言われるものもある。

弥勒さんと呼ばれる前者は、韓国の弥勒寺跡にあるものとよく似ており、弥勒信仰を通じた朝鮮半島との繋がりを示唆すると言う。
56億7千万年後に地上に降臨し、迷える衆生を救うとされる弥勒菩薩は、広隆寺の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)のスマートなイメージが強いが、姿は国によってまちまち。
韓国では頭がデカい三頭身の姿とされ、大きな石像がある。中国では、まんま
七福神の布袋(ほてい)さんの姿であり、日本でも一部に取り入れられている。(布袋さんのモデルは、中国の実在の仏僧)
南島原市の「弥勒さん」は、体形的には布袋さんの肥満体型を表しているようにも見える。顔が猿に似ているのは、ぜい肉の表現かもしれない。

後者になる、有家町寺山地区の二体は、布津町郷土史によると、発見時、「姿は地蔵のようで、顔は鬼面のようにも見える。大きい方は、
たくましい男根がそそり立っていた」という。
キャーッ! 性神は、普通、チ◯コそのもののフィギュアを、子孫繁栄、五穀豊穣を祈って祀る。しかし、日本の神仏像にチン◯がついたものは、温泉街のお土産以外では見たことがない。
いずれにしても、写真では、たくましさやそそり立ち具合が判らないので、早速現地へ行ってしげしげと観察することにした。
案内の看板を辿って民家の庭先を横切ると、妙香古墳という遺跡があり、二体の石像はその上の祠堂に並んでいた。

う~ん、本当にチ◯コか?位置がずいぶん体の中心からずれているが‥。
こ~んな感じ?
いやもしかしてこれは、着物を着て右腕を水平にし、左腕を垂直にしているのではないか?小さい方も同じように見える。

だとしたら、いったい何のポーズだろう?
ハッ! まさか‥スペシウム光線??いや、違う、そうじゃない。
これは、背中に何かを担いでいるのだ!ということは、
サンタクロースか!何となくだけど、たぶん違う‥。
もしや、
袋を担いだ布袋さん?いやいや、こんなスマートな布袋さんはいない。
わかった!ドロボウじゃあ!ンなわけあるかーい!(さあ、もうそれくらいでいいでしょう)
この石像は、
宇迦之御魂神(ウカのミタマのカミ)だと思う。
ウカの神は、
お稲荷さんの事。
食物の神であり、
稲束を背中に荷なった(担いだ)姿で描かれることが多い。
海宇工芸館 宇迦之御魂神像※つまり、こうだったのではないか?

お稲荷さんは、よくキツネの姿だと誤解されるが、キツネはお稲荷さんの眷属であり、お使い役。乗り物になっていることもある。
石像の顔をよく見ると、あごの部分は伸ばしたヒゲにも見える。小さいほうは笑っているようだ。これは、福を呼ぶ
老人の顔だろう。

東アジアの神は、白髭のある老人の姿で描かれる場合がとても多い。この共通イメージは、民衆の神が、元々は自分達を見守ってくれる長老であり、先祖だったからかもしれない。
これがお稲荷さんだと思うのは、稲を荷なう格好だけでなく、この地が、古くからの
稲荷神社という事実があるから。


そして、ここにある一番新しいお稲荷さんの神像も、しっかり稲束を荷なっている。

つまり、目の前に答えがあったということだ。
たぶん、二体の石像は、古い時代の稲荷神で、大きい古いほうが傷んできたので、小さいほうにリニューアルされたが、こちらも傷んだので現在の新しいものに替えられた。古い二体は「魂抜き」をしても粗末にはできないので近くに並べてあったが、世代が変わって忘れられていった。
そういうことだと思う。思うのは自由なので、違っていても知らんばってん。
それから、
布津町の猿石を見に行った。
・木場原のものは「弥勒さんタイプ」だが、体全体が傾いており、よく見ると左肩の部分が右に比べて明らかに盛り上がっていて、重いものを担いでいるようにも思える。


洗いすぎなのか、郷土史の写真よりだいぶすり減っているようだ。
そして珍しい事に、胸に文字か記号が彫られている。*アスタリスクのようだが、摩耗して明確ではない。
「水なら水神。*なら、隠れキリシタンの聖記号」という学説が布津町郷土史に書かれていた。しかし、その「XIモノグラム」は、古代キリスト教のもので墓碑銘に彫られる記号らしい。ちょっと納得できない。
「米」ではないかと思ったのだが、横棒は見えない。しかし、
稲は元は「禾」と書き、元になった象形文字は、下の通り。

これは、実って穂を垂れる稲の形を表している。この茎に実がついて、米の字になる。記号がもし、先祖から伝わった
稲のイメージであれば、
食物の神様に違いない。
あるいは、*コーモ‥ いや、なんでもない。
・尾篠(おざさ)集落のものは、場所の情報が無かった。神社と公民館を回った後、適当に歩いてやっと軽トラに乗った住民を発見。民家に入るのを追いかけ、「ハアハア、猿石て、どこらへんにあっとですか」と聞いた。
庭にいたご夫婦は、
「そいそい!」と、わたしの右斜め後方に当たる、塀の内側を指差した。
なーんと、集落で最初に訪ねた家の庭に、大事に祀られていた!こういう不思議な事はたびたび起きる。サンパー(散歩人)も、年季が入ってくると
レーダーが備わってくるのだろうか?
布津町郷土史の写真では、胴体部分がえぐれたように凹凸があり、例によって
「男根のある猿石」と紹介されていた。胸の辺りの丸い部分が「先っちょ」ということか。

しかし、現物を見ると、石の中にある石塊が、風化によって出てきたようにも見え、加工したのかどうかよく判らない。奥さんの話では、元の形とはだいぶ違っていて、
「水で洗うたびにだんだん削れていったとやもんねアハハハ」ということだった。
あらゆる角度から見ると、姿勢は前かがみで傾き、肩の張り出し方は左右で大きく異なって、背中も盛りあがっている。
重いものを担ぐと、バランスを取るため体は斜めになる。木場原のものと同様、たわわに実った稲を担いでいるのだと思う。

今回、現物を見れなかった2体の写真も、左肩に何か担いでいるように見える。

では、まとめましょ。
現時点の結論は、これらの石像の大半は、猿でも人でもなく、農業神。お稲荷さんである
ウカの神だと思う。
造形が巧みで無いのは、作ったのが専門家ではなく、農民だったから。それは石工に頼む
経済的な余裕が無かったからではないか。
百姓に絵心などあるはずもなく、集落ごとに一番器用な者が、少ない情報と記憶によって手探りで作ったものと思う。
石像がことごとく摩耗しているのは、素人の腕と道具でも加工できる
柔らかい石を使ったから。
島原の乱が起きた一因として、当時の半島南側の農民は、溜池を作る技術が無くて収穫量を得られず貧しい暮らしが続いた。藩主は助けるどころか搾取しまくりで、異国の神にも頼ったが変わらず、ついに決起したと聞く。
石像が、一揆の前という前提だが、具体的な改善の方法を知らない農民は、ただ働いて働いて、あとは神に祈るしかなかった。
石像は、そういう
厳しく必死な生活の記録なのではないか。そんな気がする。
これが、そこそこ核心に近づいているか、大きく外しているかは、判らない。
ただ、昔の人が作ったものの意味を知るには、何に似ているかばかりにとらわれず、誰が、何を求め、どういう気持ちで作ったかをよく考える必要があるのは、たぶん間違いない。