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喜々津は木々の茂る港だったか

長崎地名的散歩
02 /27 2023

 伊木力(いきりき)みかんとタラッタたらみでお馴染みの、

 諫早市多良見(たらみ)町

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 住民に、多良見の中心部はどこかと聞けば、「喜々津(ききつ)んニキたい」と答えるだろう。


 しかし喜々津という行政地名は存在しない。昭和30年の町村再編で、喜々津村、大草村、伊木力村が合併し、多良見村に統合されたからだ。(10年後に多良見町へ)

 

 それなのに、JRの駅名を始め、川や橋や学校名やら、昭和50年代に埋立て開発された住宅地「喜々津シーサイドタウン」やら、至る所にその名が残っている。

 最近、新しくできた駅前の高層マンション群は、着工時に名称を公募していた。何になるかと思っていたら、これまた「喜々津ステーションタウン」。

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 字面がよく、縁起もよさそうなこの地名は、時代が変わっても人気のようだ。


 多良岳が見えるという何とも楽しい理由で命名された「多良見町」も、平成17年に、他の地域と共に諫早市と合併し、自治体としての役割は無くなった。

 う~ん、諸行無常ですのう。 
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 ・多良岳てっぺんだけ?内緒だが、実はこれは五家原岳で、多良岳はその裏という噂がある。

 旧喜々津村には、化屋名(けやみょう) 木床名 中里名 囲名 市布名 西川内名が属しており、現在も「名」を除いた同じ地名が使われている。

 喜々津の漁港は木床にあり、その中に小字の船津がある。喜々津の「津」は港の事だろうから、大昔はこの辺りが中心地だったのではないかと思う。
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 では「喜々津」の地名由来を見てみよう。


 角川日本地名大辞典によると、


 「地名は古く木々津であったが、諫早初代領主竜造寺家晴が豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍の際、恵方であるこの地から出発し、のち無事ここに帰着したので、喜々津に改めた。」と、言うことだ。


 漢字だけ変えたという控えめな地名由来は珍しい。

 

 じゃあ、元々は「木々の茂る港」だったのか?


 それは無いだろう。木と土と石と水ばかりの昔の風景の中で、木々の港と言うのなら、巨木や森など、余程の特徴がなければ地名として成り立たない。


 別の意味を探してみよう。

 喜々津の「津」は、港でほぼ間違いない。


 問題は「キキ」


「キキ」とは一体何だろう。


 「お届け物をする魔女」だろうか?

 いや、この場合は違うような気がする。


 キキとララのキキ? キキ☆とブーバ〇?

 

 キキッ

 ハッ! 猿? 猿なのか?


  

 図書館やネットや、アオイみや子調査室で調べても、納得できるような答えは見つからない。


 地図の神様も降りてこない。


 便所の神様も降りてこない。(はいはい、もうそのへんで)



 キキツ、イキリキ、イチヌノ。


 多良見町にはなぜか、発音するだけで酸欠になりそうな、言いにくい地名が多い。

 長崎弁だと、抑揚と強弱が激しいのでそれほどでもないが、都会のお人が東京弁でキキツ、イキリキ、イチヌノと繰り返し言ったら、頭がクラクラするだろう。


 100回言うと、もっとクラクラするだろう。(そりゃそうだろう)

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 地名の意味については、先人が苦心して集めてくれた多くの「地名用語」がある。その中からヒントを探そう。


 九鬼や久木などと書く「クキ」という地名がある。古い言葉らしいが、その解釈は様々だ。


 断崖絶壁、山の尾根の連なり、山の洞穴、山頂のくぼみ、高く突き出た所、山に囲まれた挟い所 など。

 これだけ意味が多いという事は、地域や時代によっても意味が異なるのだろう。実際の土地の状況をよく確認する必要がある。 


 古代地名語源辞典によると、「クク」や「キク」も、クキの変化したものらしい。


え?じゃあ、『キキ』も仲間なのでは?」


 たわしはそう考え、これらの地名がつく場所の地形を、Googleマップの3D機能とストリートビューで確認することにした。


 なぜ現地へ行かないのかというと、どうせ底辺職の自分には、行く金も暇もないからだ。ほっといてくれ!



・三重県尾鷲市 九鬼(くき)町

 周囲の山の尾根筋が続いている。 ※すべてgoogleマップ3D地図より

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・高知県四万十市西土佐 玖木(くき)

 山に囲まれた狭い所で、尖った山の尾根が続いている。  

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・熊本県菊池(きくち)市

 市なので規模が大きいが、阿蘇の外周近くに尾根の通った山が連なっている。

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・徳島県美波町 木岐(きき)

 深い谷間が屈曲しながら続いている。山の尾根の線が伸びている。

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・愛媛県八幡浜市保内町 喜木(きき)

 ここは、山腹を大きく半分切り落としたような地形で、その「切断面」が尾根のように周りを囲んでいる。

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 喜木から山をひとつ越えた海岸に、喜木津(ききつ)という漁港がある。

 喜々津と読みが同じだ!

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 単に喜木にある港なので、地形に関係なく派生した地名かもしれないが、周りを尾根が囲み、先端が長く伸びて海に突き出している。


 さらに、広島県三原市本郷に、木々津(きぎつ)という地名を見つけた。

 切り立った山が長く続き、曲がった部分の内側に集落がある。

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・これらクキ地名に多く共通しているのは、山の尾根がクッキリと続いている事のようだった。


 クッキリ? もしかして、クッキリのクキなのか?


 調べたら、鮮やかではっきりしているという意味の「くきやか」という言葉が、少なくとも江戸時代初期にはあり、それが現在のクッキリに変化したらしい。

 くきやかの「クキ」が、クキ系地名の語源であれば納得がいく。



 では、我らが多良見町の喜々津はどうだろう?


 山の尾根が続くような印象は全く無いのだが‥。


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 あーっ! 尾根あるじゃん!尾根!


 👆ホラホラ!尾根!


 途切れがちだが、尾根が虚空蔵山のてっぺんから海まで伸びている。

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 近年は道路整備のためにあちこち削られ、採石場の所は大きくえぐられているが、昔はもっときれいな山だったのかもしれない。


 尾根は虚空蔵山の奥で右側にカーブして続き、一旦折れたあと、東園地区をぐるりと取り囲んでいる。

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 陸からでは判らないが、舟で海から来た者にはその形がよく見えただろう。


 

 問題は、もし喜々津の近辺に、尖った山の尾根が続く所が普通にあれば、「キキ=尾根」説は怪しいという事になる。


 神様、仏様、環奈様、アーメンソーメン冷やソーメン(昭和)と祈りながら航空写真を眺めたが、同様のクッキリ尾根は他に見当たらなかった。


 やはりキキは、尾根が長く続く地形と考えてよさそうだ。


 ひとつ解らないのが、昔の人はなぜ、ハッキリクッキリした尾根だけに、クキとかキキとかの地名をつけたのかという点。

 何か特別視する理由があったのか。たとえば、古い信仰に関係してるとか・・。

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 さて、長くなるのでこの辺でやめておこう。


 今回は、喜々津は「山の尾根が続く所の港」だったのかもというお話。


 喜々津という地名が、行政地名として復活する事は無さそうだが、これからも末永く「喜々津んニキたい」と言われ続けるだろう。



  ※参考文献 古代地名語源辞典 楠原佑介編

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小長井 井崎海岸の蝙蝠岩と鯨堂

古かもん見てさる記
02 /24 2023

 小長井の海岸と言えば、近頃はフルーツバス停。

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 若い人たちが、ひっきりなしにクルマを停めて写真を撮りまくっている。よく知らないが、SMLとやらに投稿するらしい。

 地元のばあちゃんが、バスと間違えて若者の軽ワゴン車に乗り込み、遠くへ連れていかれないか心配だ。



 そんな賑やかさとは無縁の、井崎地区の淋しい海岸。

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 この砂浜には、黒くて角ばった大小の岩石がたくさん並んでいる。

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 大きいものは2m以上。潮が引くと歩いてそばに行けるが、満ちると水の中。


 石は大抵が地面に埋まっていて、その上に砂が堆積しているらしい。多良岳の溶岩らしいのだが、詳しいことは知識不足で判らない。

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 独特な雰囲気のある景観なので、自転車でこっち方面へ来た時は、寄り道して眺めたりしている。

 何か伝承とかがないのかと思い、諫早市のHPや郷土史の他、ネット検索もしてみたが、出てくるのはフルーツバス停の画像ばかり。なかなか手がかりが見つからなかった。 



 ところが最近、諫早市立図書館が所蔵する「江戸時代の諫早領の古地図」が多数公開され、状況が変わった。

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 古地図のこの場所には、「蝙蝠(こうもり)岩」と書かれていた。


 いや、「こうもん岩」ではないし「もっこり岩」でもない。

 

 蝙蝠岩が地名なのかは微妙だが、昔の人が、黒くて尖ったたくさんの岩がコウモリの群れのようなので、そう呼んでいたのだろう。


 今は見向きもされないコウモリ岩だが、江戸時代には、「ぼっくい珍しかとばい!」と口コミでバズり、近隣の村人が弁当を下げて見物に来ていたのかもしれない。


   現在の井崎地区

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        Googleマップ航空写真より


 砂浜から見て南側の海岸には、崖と岩場が続いている。古地図には、海岸を回り込んだ所に「鯨堂」と書いてある。クジラドウと読むのだろうか。


 何で鯨堂なのか検討がつかなかったので、潮が引いた際に確かめに行った。


 海岸の丸石は途中まで平らに均され、軽トラが通れるようになっていた。

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 崖は垂直な岩壁で、下の方に高さ数十センチの赤い層が露出している。触るとそれほど硬くなく、地下水で湿っているため指に赤い泥水がつく。

 火山灰土壌の赤い土が圧縮されたものだろうか?

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 この赤い層が波で削られ、上の岩が浮いているような所もある。

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 崖の下には、長い年月の間に崩落したであろう、多数の大岩が転がっている。赤い部分が無くなって、転げ落ちたのか。

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 自分は地学に詳しい訳ではないが、こんな地層は他に見たことがない。



 この岬一帯の小字地名は「竹崎(たけんざき)」。古地図にも「竹ノ崎」と書いてある。地名のタケは、高いところを示す。海岸が崖なのが理由と思われる。


 道が途切れた所に、海水に浸かって朽ち果てた機械の破片が放置されている。古代文明のロボットの一部かと思ったが、よく見たら軽トラの後ろの車軸だった。

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 ここで一体何があったのだろうか。


 さらに奥へ進むと、赤土の層が広くむき出しになっている。

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 そして、赤土の層の上に、テーブル状になった四角い岩が乗っている。

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 まるで、切った鯨肉のように。



 「堂」という漢字には、「土を盛った台」の意味がある。


 〇〇ドウという地名の土地は、大抵が周囲よりも高くて上が平坦になっている。

 (※当社調べ)


・諫早市高来町 榎堂(えのきどう)

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 ※エノキはエ(壊)・ノキ(退き)で、崩れやすい土地と思われる。

 

・大村市西部町 小字:徳道(とくどう)

 海へ続くゆるい傾斜地で、ここだけ周囲より高い。大昔の地すべり跡にも見える。

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     Googleマップ航空写真より


 (この上にある「いちゃりば」の沖縄ソーキそばが、ウマーシャス!)

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「とく」は床の間の(とこ)で、これも「周囲より高い」という事らしい。

 ※「徳道」の字は、奈良時代の仏教僧、徳道上人の名を借りたものか。



 井崎海岸の、鯨肉の断面のようなテーブル状の岩


 おそらくこれが「鯨堂」なのだろうと思う。

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 コウモリ岩の砂浜の西側には、干拓地と思われる平坦で四角い田んぼの一角がある。


 ここは「中道(なかみち)」という小字地名なので、昔は潮が引いたら海岸を歩ける「海の中道」だったのだろうと考えていたが、古地図を見ると、やはり広い入江だった。

 昭和22年の航空写真や、昭和初期に改訂された地図ではすでに陸なので、それ以前に埋め立てられたという事が、古地図によって明らかになった。



 コウモリ岩の北側、長崎生コンクリート株式会社の敷地には、洋食屋のチキンライスのような形に盛り上がった小山がある。元は兎島(うさぎじま)という島で、周囲を埋め立てて陸地化されている。

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 地名用語の「ウサ・イサ」は砂地を表す。周囲の浜には砂の堆積があり、古地図ではトンボロ(陸繋島)のように描かれ、名称は「ウサキ嶋」とある。


 蝙蝠岩とウサキ嶋の間の海岸は「小中道」なので、昔からこの地域は全体的に砂地だったらしい。


 潮が引いた砂浜は、下が岩盤だからか、意外と固く締まっていて歩きやすい。この辺りは干潮時だけ行き来できる近道のようなルートだったと思われる。


 現在の兎島は、ダンプが砂を積んで上まで登り、斜面に落として溜めておく場所になっている。偶然とは言え、地名用語の通り砂の島だ。



 「竹崎」の岬全体の南側には、長濱」という砂浜がある。

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 地元に伝わる昔話「鬼の泣く浜」の舞台のためか、長崎県の小字地名総覧での読み方は「なくはま」となっている。


 漢字の通り、そこそこ長い浜だが、ここにもコウモリ岩のような黒い岩がたくさん露出している。

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 岩礁の海岸には、特に長くなくても「長(なが)」のつく地名をよく見る。それは薙(なぎ)に崩壊崖の意味があるので、名詞化して「ナガ」になったからと考えられる。


 長浜の海岸にある黒い岩が、陸からはがれ落ちていたのなら、「薙(ぐ)浜」だったのかもしれない。



 コウモリ岩や鯨堂のある、「井崎(いざき)」という地名は、文字に従えば「水のある岬」だが、状況から見て、イサ(砂)キ(所)で、「砂がある所」の意味だったのではないだろうか。


 イザキと兎島のウサキは、音が近く意味も共通している。


 もしかしたら、ウサキ嶋も元はイサキ嶋で、コウモリ岩や鯨堂などの「いきものシリーズ」の名に変えようということになり、兎島になったのかもしれない。


 ちなみに、兎島の北側にある岬は「猿崎(さるがさき)」


 あと、「イサ」は石のことを言う場合もあり、石原と書いてイサと読む地名もある。


 「変な石があるところ」の可能性も捨てきれない。



 諫早市は、昔から干拓が盛んだった事もあり、自然の海岸が残っているところが少ない。それでも小長井町はまだ、自然のままの地形があちこちにある。

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 しかもそれが、何万年も前からあまり変わっていない風景だと思うと、金銭的な価値では計れない貴重なものに思えてくる。


 今回は古地図のお陰で、ちょっとだけ昔の人の目線で、井崎海岸の珍しい風景を楽しむことができたかな。



 ・参考文献:古代地名語源辞典 楠原佑介編


福重 謎の線刻石仏

古かもん見てさる記
02 /19 2023

 大村市北部、海岸から野岳の中腹にかけて広がる「福重(ふくしげ)地区」は、梨やぶどうなどのフルーツ栽培で知られる営農地帯。

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 収穫の時期、各ファームの直売所は、旬の果実を待ちわびた人々で賑わう。


 丘の上の農業複合施設「おおむら夢ファームシュシュ」は、地元の農産品販売をはじめ、焼き立てパンにバイキングレストラン、更にはフルーツ狩りや農業体験も出来る人気の観光スポット。

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 休日のジェラート売り場には、長い行列ができ


 丘から見下ろす大村湾市街地の眺望もまた素晴らしい。雲間から海に光が差してキラキラと輝く様を見ると、男同士でもつい、手をつないでしまいそうになる。



 そのシュシュがある弥勒寺(みろくじ)町周辺と、近隣の武留路(むるろ)町には、「線刻石仏」と呼ばれる、珍しい形態の古い石像が点在している。


 自分は「福重ホームページ」という、地元の方が運営するサイトでその存在を知った。石像の写真の描線に着色するなど、判りやすく詳しく紹介されていた。

  ※福重ホームページ CG石仏写真(福重の石仏)へ

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 福重地区に関する様々な情報をはじめ、大村全般の昔の事も書かれており、たびたび参考にさせてもらっている。

 散歩記とは違って、お下劣な冗談とかは皆無なので、お子様の閲覧も安心だ。

(普通はそうだろう)

 

 石像はほとんどが座像で、自然石の平坦な面に線を彫って描かれている。線は細くて浅いため、近づかないと姿がよく認識できない。平安時代頃の製作と言われている。


 ほとんどが野山の露天に祀ってあったが、一部は別の場所へ移されている。


 頭頂部が盛り上がった「肉髻(にっけい)」のあるものが多く、一部には光背の輪が描かれており、見た目はほぼ仏像。

 しかし、一般的な仏像とは違って手指は印を結んでおらず、着衣の下に両手を隠している。そのため、中国式挨拶の「拱手(きょうしゅ)をしているように見える。


 「もっこり」しているのではない。


 同様の石像は全国でも類例がなく、神様か仏様か、神仏習合の権現様か、まだ明らかになっていないそうだ。

 「石仏」と呼ばれているのは、やはり見た目が仏像だからだろう。



◎石像が祀られていた場所 


 ①弥勒寺町 上八龍(小字)

 ②同上   下八龍(小字)

 ③同上   清水(小字)

 ④同上   石堂屋敷(昔の小字?)

 ⑤福重町  石走(小字)

 ⑥武留路町 仏岩三社大明神(石仏の名称)


 弥勒寺町周辺の地図

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  Googleマップ3D航空写真より



う~ん、謎のと言われちゃあ、ほっとく訳にはいきませんなァ!

という訳で、今回もまた勝手に調べてみる事にした。


 大村市史や郷土関係の文献によると、線刻石仏は、むかし弥勒寺町にあった弥勒寺や、修験道、密教などに関係するものと考えられているようだ。


 学者の先生は、拱手している仏像なので、「三十日秘仏」の中の十二日に縁のある「難勝仏(なんしょうぶつ)」であろうと言う。

 難勝仏は、他の仏より智悲行徳が優れているとされ、維摩経(ゆいまきょう)という経巻に登場する。だがそれ以上の事は判らないし、そんな超レアな仏さまを、この地域だけがあちこちに祀る理由も見つからない。

 大村郷村記で、石走(いしばしり)の石仏の祭礼日が九月十二日となっている事も根拠らしいが、なぜ九月だけなのか。

 旧暦の九月十二日は九州では稲の収穫後の時期。石走の石仏がある場所は元々農家だった。農業神と考えるのが自然ではないのか。


 形や文字や数字だけでなく、まずは作った人達、祀った人達の状況や気持ちから考えないと納得のゆく答えにたどり着かないと思う。



◎昔の福重地区全般はどのような所だったのか

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     ※郡川の河口付近より、東側の野岳方面を望む 左端は武留路山


 福重地区周辺の郡(こおり)という地名は、古代の役所である「郡、郡家(こおげ)」に関する地名と言われている。官道の駅家もこの地域にあったのかもしれない。


 郡川、佐奈川内川の流域は、古くから低湿地が広がる稲作地帯で、竹松地区を含め、食料を貯蔵、運搬する施設もあった。関連する遺跡も多い。


 時代には多くの神社仏閣があり、「郡七山十坊」と呼ばれていた。「弥勒寺」「東光寺」「龍福寺(立福寺)」など、昔あったと言われている寺の名が地名になっている。


 福重地区背後の郡岳(こおりだけ)は、古くは太郎岳(たろうだけ)と呼ばれた修験道の山で、修験者達が行き来していた。


 様々な遺跡や伝承から、この辺りは室町時代くらいまで、大村の中心地だったと考えられている。



◎多くの石像が祀られていた弥勒寺(みろくじ)町周辺の様子

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 弥勒寺町は、野岳の麓の斜面地で、古くから田畑が開かれている。旧海岸から弥勒寺町公民館辺りまでは緩やかな坂で、それより上はけっこうな急勾配が続く。そして、農地にしては川らしい川が無い。現在は溜池や水道設備、地下水を汲み上げる電動ポンプなどもあるが、昔は湧き水や雨水が頼りだったはず。


 北隣りの草場町には、涸れない湧水があり、棚田が一面に広がっている。クサバのクサは、地名用語で湿地の事とされる。


 南隣りの立福寺(りふくじ)町は、佐奈川内川流域の低湿地に水田が続いている。古くは龍福寺と書いた。もしも地名が寺の名になったとすれば、龍は水を表し、フクは湿地なので、川と水田に関する地名だったのかも知れない。


 野岳周辺の土地は、湧き水はあるが水量が不安定な上、地質や地形的な問題もあって、雨が多いと洪水になり、日照りが少し続くと田畑が枯れるような土地が多かった。 

 江戸時代になって、鯨捕りで大富豪になった深澤義太夫が、野岳周辺に多くの溜め池と水路を作り、ようやく安定した水を得られるようになったということだ。


 弥勒寺町と福重町(旧:矢上郷)の斜面は、周囲の土地と比べて自然の水が少なく、傾斜もきつく凹凸も多い。大雨や日照りの時は、大きく影響を受けただろう。


 「弥勒」は無論、弥勒菩薩の事であり、全国に同名の寺は多いが、もしもミロクという地名が先にあったとしたら、ミロクのロクは石(碌)で、石が多い荒れ地を示す地名だったのかもしれない。

 実際、あちこちに大きな石が転がっており、そういう印象を受けた。


 農地としては、決してよい場所では無かったはず。

 ここは、「あとから来た人たち」が苦労して切り開いた土地だったろう。

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 ※ちなみに、和歌山県海草郡紀美野町の箕六(みろく)地区をGoogleストリートビューで見ると、山の急斜面であり、地層に多くの石を含んだ所のようだ。

  34°07'28.4"N 135°21'33.3"E


 弥勒寺町周辺には、線刻石仏以外にも多くの仏像や仏塔類がある。詳しくは福重HPで。



線刻石仏は、いつ、誰が、どのような目的で祀ったのか。


 いろんな説があるとは思うのだが、この石仏は、古い時代に仏教によって可視化された「水の神」だと自分は考える。

 祀ったのは土地の農民。製作に関わったのは、この地域にあったと言われる「弥勒寺」の僧侶だったかもしれない。


 農民にとって、水は生命線であり、少なすぎると作物はすべて枯れ、多すぎると腐ったり田畑ごと流されたりする。ちょうどよい量の水を与えてくれるよう、昔から人は神に祈ってきた。



 自分は、この件を調べるうちにある事に気づき、石像は水神で、湧き水のある場所に祀ったのではないかと思い始めた。 

 そして、この仮説を証明するため、それぞれの祭祀場所へ、お~いお茶とおやつを持って調査に向かった。


・弥勒寺町 上八龍:かみはちりゅう(小字)  

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 石仏は、シュシュから見上げた高速道路のさらに上、傾斜地の田んぼの脇にあったが、現在は弥勒寺町の公民館敷地内に移設されている。

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 この周辺には、高速道路を挟んで「上八龍遺跡」という縄文・弥生時代の集落遺跡が広がっていた。

 

 線刻石仏は遺跡の調査報告書にも記載されている。

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    ・九州横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財緊急発掘調査報告書 Ⅷより

 元々あった場所がよく判らず、地元の人たちに聞いておおよその場所を特定した。そこには野岳の溜め池から引かれた水路があり、その向こう側の壁の穴からはいつも水がちょろちょろ流れ出ていた。 

 ここは水路に水がまったく無い時も出ている。湧水に違いない。

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 畑で作業をされていた農家の人たちの話では、上の方の道路や住宅が開発される前は、あちこちからもっと多くの水が湧き出していたとのことだった。


 この場所のすぐそばには森が繁っている。沼の跡らしい所もあり、地下には水が通っているはず。野岳の溜め池ができる以前は、さらに多くの水が出ていたのだろう。

 縄文人が、川の無い山の斜面に住んでいたことも理解できる。


 地元のおじいさんの話では、この辺りを八龍谷(はちりゅうだん)と呼び、石仏は「岩(いわ)さま」と呼んで大事にされていたそうだ。


 そして、「八龍」という小字地名自体が、水との関連を示唆している。八龍は、法華経に登場する八柱の龍神で、水の神とされる。農民には、祈雨・止雨の神として、漁民には、海の神として全国で古くから祀られてきた。


 八大龍王の内、和修吉(わしゅうきつ)龍王は、九頭龍王(くずりゅうおう)として日本で広く信仰されている。阿那婆達多 (あなばだった)龍王は、大河を出して人間界を潤すと言われている。

 そして、この二神は、中国経由の仏画では「拱手」の姿で描かれている事が多い。


 シュシュから農道を少し上った所に、以前「八龍古墳」という遺跡があった。地元の人はそこを「八龍権現」と呼んで祀っていたとの記録がある。江戸時代に作られた野岳溜め池の水路脇で水に関係する場所だ。

 この辺りは、溜め池の水路になる以前も、大水の通り道だったと思われる点がある。溜め池の水路にしては谷の地形がいやに深いし、真下にある草場町の小字「萩原(はぎはら)」は、水や土砂で土地がはがされる意味と考えられるからだ。


 学者の先生は、この古墳について「八龍権現とかいって部落民の土俗信仰の対象となっている」と一言で片付けているが、水の供給が不安定な土地の農民にとっては、本当に大切な存在だったはずだ。


 これらの事から、小字地名の「八龍」は、八龍権現の存在に由来するものだと思う。


 付近の民家に訊いて回ったが、現在、八龍権現について知る人は見つからなかった。世代が変わり、完全に忘れられてしまったのかもしれない。


 線刻石仏が八大龍王だと断定はしないが、状況的にはそれもあり得ると思う。江戸時代の八大龍王は体に龍が巻き付いた姿で描かれたが、それ以前はどうだったのだろうか。資料がなく、記憶と想像で描かれたこともあったのではないか。


 

・弥勒寺町 下八龍:しもはちりゅう(小字) 


 現在、下八龍の線刻石仏は、シュシュの駐車場の池の奥に置かれている。

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 ※モヒカン頭なのではない。


 ここの線刻石仏は、「元はシュシュの近くにあった」という情報だけだったので、その辺りで湧水のある所を探した。すると、坂の途中、山口梨園のそばに石囲いをした池を見つけた。

 立派な大木が木陰を作っている。中を覗くと、いくらか水が溜まっており、ポンプも設置してある。これはどう見ても湧水だ。

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 山口梨園の奥さんに訊いたところ、線刻石仏は、自宅裏の竹林にあったという事だった。やはりそこにも湧水があり、以前は家まで引いて飲み水に利用されていたそうだ。



・弥勒寺町 清水:しみず(小字)  

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 線刻石仏について調べ始めた当初、湧き水のそばに祀られたのではないかと考え、福重ホームページを見直すと「清水」にもあると書いてあった。ああ、やはりそうかと納得した。

 清水は湧水のことであり、この場所と同じように崖下にあることが多い。岩の上のすき間から染み出す水で岩の表面にコケが生え、線刻石仏の姿はよく判らなかった。この場所には、比較的新しい安産祈願の観音様が祀られている。



・弥勒寺町 石堂屋敷:いしどうやしき 


弥勒寺町公民館の西側 周囲より高くなった林の中にある。

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 石堂屋敷という地名は、長崎県の小字地名総覧には記載が無いが、大村郷村記には出てくる。昔あった弥勒寺のすぐ近くなので、関連する建物がそばにあったのかもしれない。


 畑の脇から入ると、まず大きな仏頭が祀られている。上に上がると、習作や製作途中と思われる線刻石仏が複数ある。ここは祭祀場所だけでなく、半分は工房だったのではないか。

 弥勒寺はこのすぐ近くにあったそうなので、ここで僧侶や農民が石仏を彫る練習をしていたのかもしれない。


 この辺りの小字名は「赤坊園」という。アカは赤土の意味もあるが、水を示す事も多い。ボウは大抵崩壊地で、ソノは石がゴロゴロしている所につけられる。


 湧き水はどうかというと、この辺りが石走川の水源らしい。公民館の前に貯水槽がある。石堂屋敷のそばの民家は崖下で裏に井戸がある。そのほか、水路の側面や田んぼの脇などからも水が細く出ているのを確認した。



・福重町 石走:いしばしり(小字)

 

 ここは傾斜地ではなく扇状地の先端で、大昔は海岸の近くだった所。民家の庭にある。


 訪問して見させてもらった。線刻石仏は、石室だったと思われる板石に彫られていて、高さ2mくらいの古墳の盛り土の上に鎮座している。古墳をリサイクルした地球に優しい仏様だ。

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 一緒にある半身の石仏は、宝冠を被っているように見えるが、八大龍王の像もたいてい宝冠を被っている。


 しかし、周囲に湧き水がある場所は見あたらない。石仏は、江戸時代以前に別の場所から運んできたのだろうか?と諦めかけていた。

 しかし、粘って調査を続けていると、雨上がりの日、すぐ近くにある会社敷地の土台部分の塩ビパイプから、水がジャバジャバ流れ落ちているのが見えた。側溝の水は別のところへ落ちているので、雨混じりなのだろうが、地下を流れてきた水のはずだ。

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 さらに、地元の人から、自分らが小さい頃は、石走の道祖神そばの大木の辺りからも水が出ていたと聞いた。

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 ここにも、湧き水はあった。


 石走(いしばしり)という地名は、最初、大雨で水路から溢れた石が転げ回る所だと思った。 しかし、万葉集に「石走る(いわばしる)垂水(たるみ)の上のさわらびの‥」という歌 があり、岩の上をほとばしる水という意味から、滝のように落ちる湧水があった事による地名とも考えられないだろうか。



・武留路町 仏岩三社大明神(線刻石仏の呼び名)


 最後に、武留路(むるろ)町へ。福重地区とは少し離れている。大村市の北端で、東彼杵郡との境界の町。昭和38年までは東彼杵郡に属していた。

 美しい円すい形の武留路山が遠くからもよく見えているが、実は武留路山は東彼杵町のまま。

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   ※Googleマップ 3D航空写真より

 

 ここの仏岩三社大明神に湧き水があれば、ミッションクリアだ。


 当時、「祭祀場所は餅の浜川沿いの崖」という情報だけだった。行きゃあ分かるだろうと探しに行ったが、川沿いをいくらウロウロしてもそれらしい崖が無い。

 途方に暮れていると、黄色い蝶がひらひらと自分のそばに飛んできた。何気なしに、「仏様はどこね?」と尋ねると、蝶は工事中の西九州新幹線の橋脚の方へ、まるで案内するかのように羽ばたき、ふわふわと宙に舞っている。


 まさかと思って見上げると、鉄橋の下のヤブの奥に、断崖と石塔の頭のようなものが見える。ここだ!間違いない。

 また調査中に不思議なことが起きた。これはもう、誰かが哀れに思って助けてくれているのだろう。


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         ※個人所有地で地主様の許可を得て撮影しています


 下からは登れないので、集落の畑で片付け中のご夫婦に行き方を教えてもらい、あぜ道を進んだ。イノシシ除けの柵を開けると、崖のキワの狭い道に「農業用水の水路」が続いていた。

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 水だ! 湧水の期待が高まる。


 雨上がりだったが、水路の周囲はきれいに掃除されていた。


 夏場なので、毒蛇やイノシシと遭遇するかもしれない。オラッ!シャーッ!見えない敵を威嚇しながら進んだ。不意にガサガサと物音がして、何かが足元を横切った!

 キャー!と言って逃げながら横目で見ると、茶色い毛がフサフサした小さい動物だった。キツネのようにも見えたが、よく判らなかった。おとなしいスピッツだったかもしれない。


 仏岩三社大明神の祭祀場所に到着。断崖の岩壁に、高さが4m近くもある巨大な線刻石仏が描かれ、右側に小さいサイズのものが2体描かれている。

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 大きい方は苔や水で描線が見えにくく、かろうじて頭部が認識できた。

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 すぐ近くに新幹線の橋脚があり、ほぼ真上に橋が架かっている。ひとつ間違えたら石仏もコンクリートで埋められていたかもしれない。


 仏岩三社大明神の、「仏岩」は名の通りだが、「三社」は集落にある神社、三社大権現によるものだろう。「大明神」の名称が正しければ、大権現の「仮に神の姿で現れた仏」ではなく、「姿を現した神そのもの」ということになる。しかしそれは、どちらであっても大した問題ではない。


 ただ、残念な事にここは水源ではなく、水路はもっと奥の方から続いていた。たぶん、ダムの上の鳴滝辺りから取水しているのだろう。


 水路がいつ頃からあったかは判らないが、大村郷村記には、餅の浜川の石橋から、上流の井手之平まで、渓川境左右田畑なりと書かれているので、たぶん古くからあったと思う。


水路の途中の危険な崖に、これほど巨大な石仏を彫ったのは、やはり昔の人たちが水の供給を切実に願い、神仏に訴えようとしたからではないだろうか。


 それにしても、祭祀場所の荒れようはどうだ!まるで土砂崩れあとではないか。この大きなダクトは、余分な水を捨て流すためのものだろう!?

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 あとで、餅の浜川のほとりにいた農家のおじいさんに訊いたところ、新幹線の工事で、石仏の崖の上から大量の水が滝のように流れ出て、工事関係者は難儀していたそうだ。崩れているのはそれが原因らしい。これはバッチリ修復してもらわんといかん。


 いやまてよ、それなら、以前は岩壁の周辺から湧き水が出ていたのかもしれないではないか。


 まあ、ともかく、線刻石仏が水の神である可能性は高まったと思う。



 国道から武留路町の集落へ上ってすぐの所に、自然石の水道記念碑が建っている。碑文によると、武留路地区は玄武岩地質のため昔から生活用水が乏しく、昭和45年に地下ボウリングが行われるまでは、湧き水と浅井戸で何とか水を得ていたらしい。


 碑文は、「汲めど尽きぬ」水道ができた喜びに満ちていた。ここもほんの数十年前まで、水で苦労してきた土地だったのだ。

 

 用水路の行方を辿ると、集落下方の尾根をぐるりと回り込んで海側へ続き、多くの棚田を潤していた。(3D地図の細い青線) どれくらいの間、この用水路は守られてきたのだろうか。

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 ─── 遠い遠い昔、人々はまだ目に見えない存在だった神に、生活と農耕に必要な水を、尽きることなく与えてほしいと願った。


 やがて仏教が広まると、「見えない神より姿のある仏の方が民衆に信心されやすい」という話になり、神にも姿が付加され、神像が作られるようになっていった。


 弥勒寺周辺の農民も、水神の像を祀ろうと考え、寺に相談する。日本の仏教では、八大龍王が水の神とされることが多かったが、当時、図書館もネットもなく、外観などの詳しい資料が手に入らない。

 それに、農民が古くから大切にしてきた水神を、急に別の龍神に変えるのも抵抗があっただろう。


 僧侶たちは仏典の八大龍王からイメージを膨らませ、オリジナルの解釈を加えた水の神を石に刻んで水源に祀った。

 時代が進み、八大龍王の信仰が盛んになると、八龍権現として祀られるようになった。


 ザックリ、こういう事ではなかったのだろうか。

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 さて、言いたい事はだいたい言ったので、そろそろ終わろう。



 最後に、自分がなぜ、石仏が湧水源にあったと考えたかというと・・


 石仏が胸の前で拱手(きょうしゅ)する形と線は、湧いてあふれる水のイメージではないかと思ったからなのです。 

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Ramblingbird

長崎南部の自転車散歩やどうでもいい出来事を、小学生ギャグを交えて書き散らします。お下劣な表現を含みますのでご注意下さい。