地名散歩 長崎市茂木(もぎ)
長崎地名的散歩長崎市茂木町は、市街地から田上(たがみ)の峠を越え、つづら折りの狭い森の道を下り、川沿いの切り立った崖の側を通り抜けた、隔絶の地にある。
淋しい所かと思いきや、千々石灘に面する海岸の景観は明るく開放的で、日がな一日のんびり過ごせるところ。
明治期には、長崎に居住していた西洋人のリゾート地として賑わったそうだ。
茂木には特に何があるという訳でもないが、自分は何となく好きな町なので、時々ふらりと立ち寄って散歩したりする。
堤防に佇んで、沖を行く船と霞んで見える島原半島や天草の島を眺め、

錆びて色褪せたフェリー埠頭で、昔の賑わいを想像したり、
壊れかけた古い家屋が並ぶ路地を歩いて、諸行無常を感じたり、

日向ぼっこするにゃんこちゃんを見てほっこりしたり、ちゅーるを与えたり、
クルマから折りたたみ自転車を出して、あちこち探索したり、

ああ、落ち着きますのう~
茂木の昔の事については、長崎市が公開している「茂木の歩み」「茂木の散歩道」のPDF資料に詳しく書かれている。
この地には古くから漁民が多かったためか、神功皇后(じんぐうこうごう)伝説が多く残っており、茂木の地名由来も、それにまつわるものとして語られる。
・神功皇后が、川を流れてきた「もみ菜」を見て、この地を「もみの浦」と名付け、変化して「もぎ」となった。
・神功皇后が、この地で衣の下袴の「裳(も)」を着替えたので「裳着(もぎ)」と名付けた。
・神功皇后の家来である八人の武臣が、狭い所に並んで夜具を着たので「群着(むれぎ)」と名付け、もぎに変化した。
※伝説は伝説としての価値があるが、ここでは現実的な視点で地名を考える。
長崎でも創建が古い「裳着神社」は、明治になるまでは「八武者大権現」だった。
資料によって「はちむしゃ」とも「やむしゃ」とも書いてある。八人の武臣に関係するとも言われているが、別の神様の可能性が高そうだ。「裳着」の字が使われている。
田上の峠から茂木方面へ少し下った急傾斜地に、転石(ころびし)という地区がある。坂道に石がゴロゴロして足場が悪く、転びそうな所だったのだろう。
同様の小地域の地名は、あちこちに見られる。
神功皇后伝説で、皇后が凱旋の記念に鎧を着た所を「鎧初(よろいそ)」と言ったそうだ。
よろいそが縮まると「よれそ」のはずだが、茂木の歩みには「よそれ」と書いてある。単なる間違いかと思ったが、話し言葉で自然に前後が入れ替わる事はあるので、そう言っていたのかもしれない。
(例)舌つづみ→舌づつみ わたし→たわし(それはわざとですよね?)
現在は、よろいそがどこかは不明らしいが、転石の事だろう。
「よろ」はヨロつくで、「いそ(磯)」は石が多い所。石が多くてヨロつくというのは、転石と意味がほぼ同じだ。
神功皇后が岸を歩いていると、川上から若菜が漂って来たので、その川を「若菜川」と名付けたと言う。
ワカナの「カナ」は、地名用語で「折れ曲がる」という意味で、大きくカックンと曲がった川によくつけられている。
「曲」という字は(カネ)とも読むので、カナも同じ扱いらしい。
※大工道具の直角の曲尺(カネジャク)は、カナジャクとも読む。
若菜川の下流域は、谷を削ってカックンカックン曲がっている。
※googleマップより
もしかしてと思い、「神奈川県」の地図を見ると、鶴見川を始め、カーブするというより折れ曲がったような川が多い。たぶんここもそうなのだろう。
若菜川は、谷底平野を蛇行しながら下り、下流で川平川と合流する。そして、平地にたどり着いたところで直角に崖に突き当たり、斜面を崩落させていたらしい。
上流の早坂町はかなりの急傾斜地で、山の上にある長崎自動車道の長崎インター付近の水路は、水の勢いを弱める形状になっている。

「若菜川」は、やわらかなイメージの名とは裏腹に、大雨で氾濫を起こす暴れ川だ。
川は直角に曲がり、S字を描いたあと、もう一度直角以上に大きく曲がって、また、崖の斜面をもぎ取り、谷を彫り込んでいる。
「もぎる」という言葉は、力ずくでもぎ取る事。「もぐ」は軽くひねって取るイメージだが、もぎるとの違いは曖昧。古い時代には「もる」とも言った。
「もぐ」という動詞を名詞化すると「もぎ」になる。
茂木(もぎ)の地名は、この辺が由来ではないかと、たわしは考えているのだが、どうだろうか。
古い地名の意味は、自然の優美さより、自然の脅威によるものが圧倒的に多い。それは人が自然に対して畏敬の念を抱いていたからだろう。
もう少し茂木の散歩を続けよう。
茂木小学校の運動場とプールは、川に架けた歩道橋を渡ったところにある。平地が少ない土地ならではの光景だ。
河口付近の土砂が堆積した島状の土地は、貴重な平地になっている。

山に遮られた茂木の町は、長崎の多くの集落がそうであるように、かつては海が玄関口であり、船の交通がメインだった。
クルマ社会になる前は、島原半島と天草を中心に、北は福岡の三池港、南は鹿児島の甑島まで船のルートが多数あり、蒸気船が行き交っていた。
昭和になると、あちこちにフェリーが就航したが、今度は高速道路が発達し、減って行く。
現在の茂木港は、熊本県の天草郡苓北町富岡行きの高速船のみが、かろうじて運行されている。
昔、長崎と茂木間に鉄道を通すという、なかなか無茶な計画があり、この切通しの道はその名残りだそうだ。(計画は、線路を敷く前に頓挫した)
海岸を埋め立てて広い道路が出来てからは、地元の生活道になっている。

川ぎりぎりに建つ住宅は、気持ちよさそうだが大変なことも多いだろう。
