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地名散歩 長崎市茂木(もぎ)

長崎地名的散歩
03 /30 2023

 長崎市茂木町は、市街地から田上(たがみ)の峠を越え、つづら折りの狭い森の道を下り、川沿いの切り立った崖の側を通り抜けた、隔絶の地にある。


 淋しい所かと思いきや、千々石灘に面する海岸の景観は明るく開放的で、日がな一日のんびり過ごせるところ。

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 明治期には、長崎に居住していた西洋人のリゾート地として賑わったそうだ。

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 茂木には特に何があるという訳でもないが、自分は何となく好きな町なので、時々ふらりと立ち寄って散歩したりする。


 堤防に佇んで、沖を行く船と霞んで見える島原半島や天草の島を眺め、

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 錆びて色褪せたフェリー埠頭で、昔の賑わいを想像したり、

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 壊れかけた古い家屋が並ぶ路地を歩いて、諸行無常を感じたり、

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 日向ぼっこするにゃんこちゃんを見てほっこりしたり、ちゅーるを与えたり、 

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 クルマから折りたたみ自転車を出して、あちこち探索したり、

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 ああ、落ち着きますのう~

 

 茂木の昔の事については、長崎市が公開している「茂木の歩み」「茂木の散歩道」PDF資料に詳しく書かれている。 


 この地には古くから漁民が多かったためか、神功皇后(じんぐうこうごう)伝説が多く残っており、茂木の地名由来も、それにまつわるものとして語られる。


 ・神功皇后が、川を流れてきた「もみ菜」を見て、この地を「もみの浦」と名付け、変化して「もぎ」となった。

 ・神功皇后が、この地で衣の下袴の「裳(も)」を着替えたので「裳着(もぎ)」と名付けた。

 ・神功皇后の家来である八人の武臣が、狭い所に並んで夜具を着たので「群着(むれぎ)」と名付け、もぎに変化した。


 ※伝説は伝説としての価値があるが、ここでは現実的な視点で地名を考える。



 長崎でも創建が古い「裳着神社」は、明治になるまでは「八武者大権現」だった。

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 資料によって「はちむしゃ」とも「やむしゃ」とも書いてある。八人の武臣に関係するとも言われているが、別の神様の可能性が高そうだ。「裳着」の字が使われている。


 田上の峠から茂木方面へ少し下った急傾斜地に、転石(ころびし)という地区がある。坂道に石がゴロゴロして足場が悪く、転びそうな所だったのだろう。

 同様の小地域の地名は、あちこちに見られる。

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 神功皇后伝説で、皇后が凱旋の記念に鎧を着た所を「鎧初(よろいそ)」と言ったそうだ。

 よろいそが縮まると「よれそ」のはずだが、茂木の歩みには「よそれ」と書いてある。単なる間違いかと思ったが、話し言葉で自然に前後が入れ替わる事はあるので、そう言っていたのかもしれない。

(例)舌つづみ→舌づつみ わたし→たわし(それはわざとですよね?)


 現在は、よろいそがどこかは不明らしいが、転石の事だろう。

 「よろ」はヨロつくで、「いそ(磯)」は石が多い所。石が多くてヨロつくというのは、転石と意味がほぼ同じだ。


 神功皇后が岸を歩いていると、川上から若菜が漂って来たので、その川を「若菜川」と名付けたと言う。


 ワカナの「カナ」は、地名用語で「折れ曲がる」という意味で、大きくカックンと曲がった川によくつけられている。

 「曲」という字は(カネ)とも読むので、カナも同じ扱いらしい。

   ※大工道具の直角の曲尺(カネジャク)は、カナジャクとも読む。


 若菜川の下流域は、谷を削ってカックンカックン曲がっている。

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    ※googleマップより


 もしかしてと思い、「神奈川県」の地図を見ると、鶴見川を始め、カーブするというより折れ曲がったような川が多い。たぶんここもそうなのだろう。



 若菜川は、谷底平野を蛇行しながら下り、下流で川平川と合流する。そして、平地にたどり着いたところで直角に崖に突き当たり、斜面を崩落させていたらしい。


 上流の早坂町はかなりの急傾斜地で、山の上にある長崎自動車道の長崎インター付近の水路は、水の勢いを弱める形状になっている。

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 「若菜川」は、やわらかなイメージの名とは裏腹に、大雨で氾濫を起こす暴れ川だ。


 川は直角に曲がり、S字を描いたあと、もう一度直角以上に大きく曲がって、また、崖の斜面をもぎ取り、谷を彫り込んでいる。

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 「もぎる」という言葉は、力ずくでもぎ取る事。「もぐ」は軽くひねって取るイメージだが、もぎるとの違いは曖昧。古い時代には「もる」とも言った。


 「もぐ」という動詞を名詞化すると「もぎ」になる。


 それから、河口の丸くなった土地は、明らかに砂州が発達したものであり、南側から小さい川が流れ込む事によって丸い形になり、埋め立てて護岸を作り、現在の形に落ち着いている。
 モギという地名がつけられた古い時代の姿を想像するのは難しいが、大地からもぎ取られたような地形だったのかもしれない。
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    ※googleマップより
 

 茂木(もぎ)の地名は、この辺が由来ではないかと、たわしは考えているのだが、どうだろうか。


 古い地名の意味は、自然の優美さより、自然の脅威によるものが圧倒的に多い。それは人が自然に対して畏敬の念を抱いていたからだろう。



 もう少し茂木の散歩を続けよう。


 茂木小学校の運動場とプールは、川に架けた歩道橋を渡ったところにある。平地が少ない土地ならではの光景だ。DSCF2078CA.jpg


 河口付近の土砂が堆積した島状の土地は、貴重な平地になっている。

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 山に遮られた茂木の町は、長崎の多くの集落がそうであるように、かつては海が玄関口であり、船の交通がメインだった。

 クルマ社会になる前は、島原半島と天草を中心に、北は福岡の三池港、南は鹿児島の甑島まで船のルートが多数あり、蒸気船が行き交っていた。

 昭和になると、あちこちにフェリーが就航したが、今度は高速道路が発達し、減って行く。


 現在の茂木港は、熊本県の天草郡苓北町富岡行きの高速船のみが、かろうじて運行されている。

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 昔、長崎と茂木間に鉄道を通すという、なかなか無茶な計画があり、この切通しの道はその名残りだそうだ。(計画は、線路を敷く前に頓挫した)

 海岸を埋め立てて広い道路が出来てからは、地元の生活道になっている。

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 川ぎりぎりに建つ住宅は、気持ちよさそうだが大変なことも多いだろう。
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 いいなあ~、たまらんな~、昭和の追加型リフォーム住宅。
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 奥の緑色のひさしの所は、揚げたてを買える田口天ぷら店。近くにあるオロンのパンも人気だ。

 さて、そろそろ帰ろうか。行ってたわけじゃないけど。
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 ああ、やっぱり茂木の町はいいなあ。古いものが無くなる前に、もっと散歩しとこう。  


   ※参考文献:茂木の散歩道 茂木の歩み 長崎市
         古代地名語源辞典 楠原佑介編

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地名散歩 じゃないほうの「博多」

長崎地名的散歩
03 /23 2023

あれぇ〜 変だな~


博多って、こんな所だったかな~

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もっと都会だったはずだがな~


キャナルシティどこかな〜


しかし誰も通らんな〜

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 と言うのはウソで、ここは佐賀県唐津市の山の中、七山木浦という所にある「博多(はかた)」たい!


 数年前、地図でたまたま見つけて、唐津方面へ行くついでに寄ってみたのだが、ケータイの電波もまったく届かない、田舎中の田舎だった。


 途中、すれ違った原付スクーターの男性は、ごく普通の身なりだったが、ノーヘルの上、子供をステップに立たせて走っていた。昭和以来の光景だ。


 畑で作業していたばあちゃんは、戦後初めて村人以外の人間を見たような顔をしていた。


 福岡の博多の地名由来は、箱形の入江説や、外国に往来する船が停泊する潟説(※潟は砂州の港)、大きな鳥が羽根を広げた地形なので羽形説など、いろいろな説がある。


 しかし、この博多については、どれも当てはまらない。


 ここがなぜ「ハカタ」なのだろう。


 「お墓が田んぼだから」だろうか?(ちゃんと考えろって)


 金メダルと高級干し柿を考え無しにかじって、歯形とよだれがついたからだろうか?


 ハッ!もしかして! 


 実は博多というのはウソで、わしはまんまとだまされていた?(だから、誰が何のために!)


 そうか、モニタリングか!

 じゃあ、畑にいたのは、変装した広瀬すずちゃん?(ただのばあちゃんだろうが)



 ここの「博多」という漢字はたぶん、人が住むようになってから、福岡の博多にあやかって変えられたのだろう。それ以前は、冗談抜きに「墓田(はかた)」だったかもしれない。


 墓田という姓は、少ないが全国に存在している。それは、その地名がどこかにあったからだ。


 博多集落には、七山茶の製茶工場があり、周囲には茶畑が広がっている。

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 そして、結構な傾斜の崖に囲まれている。広範囲の地形を見ると、この辺りは大雨の際、水の通り道になる事が判る。

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      ※Googleマップより

 地名用語で、ハカ、ハガは、「剥ぐ・剥がす」であり、崩落する崖の事。


 地名の後ろに付く、タ、ダは、大抵が「場所」の意味。


 つまり、この場合のハカタは「崖が崩落する場所」という意味だったのではないかと自分は考える。


 製茶工場の横、お堂がある丘の斜面は、その地形から、長い間に少しづつ崩落を繰り返して来たと推測できる。

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     ※Googleストリートビューより
その他にもあちこちに崩落崖が見られる。
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 長崎県にも「墓(ハカ)」のつく小字地名は結構ある。やはりほとんどが、崩落しそうな崖地のようだ。「墓田」は見つからなかった。


 愛媛県今治市にも伯方(はかた)がある。

「ハッ!カッ!タッ!ノッ!シオッ!」で有名だが、腹の具合がよくない時は、あまりリキんで歌うと危険なので、充分注意しよう。


 伯方は港でもあるが、山に囲まれているので崩落崖の意味だったかも知れない。


 

 昭和バスの、七山木浦の博多バス停を通る路線は、利用者の減少により2022年にライトバンのデマンドバスに替わったそうだ。


 デマンドバスというのは、幾層にも重ねた薄いクレープ生地に、ココアクリームを(はいはい、ルマンドね)

 まあ、要するに、連絡したら迎えに来るバスだ。



 今回は、佐賀の山の中にある、博多という地名について見てきたが、そんな事よりも、侍ジャパンが凄すぎて変なテンションになっている。きゃっほう!

 ああ、久し振りにいいものを見せてもらった。


 では、来週もまた、見てくださいね。んがぁくっく。

 


地名散歩 多良見町市布(いちぬの)

長崎地名的散歩
03 /18 2023
諫早市多良見町 市布(いちぬの)

 市布には、長崎自動車道の長崎多良見インターがあり、すぐ近くには諫早市と長崎市を結ぶ長崎バイパスの出入口がある。
 一般道の国道34号線も、隣接する東長崎地区や長崎市街地へ行き来する車が通るため、この付近は相変わらず交通量が多い。
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    ※Googleマップより
 市布と言えば、以前はバイパスと国道が交差する信号でいつも激しく渋滞していた。頻尿の人達にとっては、人間の尊厳を死守するため命懸けで戦った地獄の交差点だった。
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    ※国土地理院空中写真サービスより
 しかしその後、道路が交差しないよう国道の片側を高架橋にしたため、渋滞も尿もれも、かなり解消されている。
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 JR長崎本線は、多良見町の喜々津駅から長崎に向かって新旧二つの路線に別れるのだが、電化された比較的新しい方は、一般に「市布経由」と呼ばれている。
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 喜々津駅の次が市布駅で、あとは長崎市街までトンネルと山間の無人駅だけなので、市布経由と呼ぶのが一番わかりやすかったのだろう。

 そういう事もあり、市布という地名は近隣の人々にもそこそこ知られている。

 国道沿いには、新車・中古車の販売店に、住宅展示場やリフォーム関連のショールームなどが建ち並んで賑やかだ。
 しかし、元々は谷間の農村地帯。店舗の裏側には、田んぼと畑ののどかな風景が広がっている。
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 それにしても、市布(イチヌノ)は、なかなかイミフな謎地名。 
 よそから来た人は「イチヌノ?なんじゃそりゃ」と思うはず。

 なので、先手を打って、交差点の地名表示に(なんじゃそりゃ)と書いておくというのはどうだろう?
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(いやいや、何のために!)


 では、「市布(いちぬの)」とは何のことだろう。

 「座頭市のふんどし」だろうか?(ちょっとは考えてから言えよ)

 確かな情報だったのかは判らないが、市布は、古文書に「一野々(いちのの)」と書かれていたというのを何かで読んだ。何でだったのかは、まったく思い出せん!

 「市野々」や「内野々」という地名は東日本に多いようだが、長崎周辺ではちょっと見ない。
 ※野母崎の高浜に「野々串」があるが、ここは地形的な共通点が無いので、別の意味だと思う。

 イチノノは九州にも無いことはないが、昔の小字らしいので、検索しても場所が判らない。どんどん消滅しているのだろう。

 地名のイチは、市場や集落でなければ、その場所や周囲が険しい所。ウチは、何かの内側の地域か、山の間か、「憂し」で軟弱地盤の土地。
 イチがウチになったり、その逆もあったかもしれない。
   
 野は、野っ原でよさそうだが、日本の地形上、ゆるい傾斜地の場合が多い。

 では「野々」とは何だろう?
 うわぁあ~ん!と泣き叫ぶ市議だろうか?(ネタが古~い)


 全国の市野々という地名の土地を、航空写真やGoogleストリートビューなどで見たところ、「山の谷間に、川沿いの田んぼが細長く続く土地」である事がほとんどだった。

 つまり、イチは「険しい山の間」で、野々は、野を繰り返す事で「長く続く野」を表現したのではないだろうか。

 市布という地名は全国的にも少なく、ネットの地図で見つけたのは、廃村になった福井県大野市の東市布と、福井県福井市の西市布くらいだった。
 これらも昭和の航空写真を見ると、山間の川沿いに細い田んぼが続く地形なので、元は「市野々」だったのではないかと思われる。
 ・福井県大野市 東市布(昭和36年) 
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    ※国道地理院 空中写真サービスより

 ・福井県福井市 西市布町(昭和50年)
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    ※国道地理院 空中写真サービスより
 福井県の他の地域には「市野々」という地名があるので、上の2箇所だけが何らかの原因で「市布」に変わったか、意図的に変えられたのかもしれない。

 多良見町の市布も、イチノノから変えられた可能性はないか。
 福井市と言えば曹洞宗の総本山、永平寺がある。昔、多良見町の市布は諫早領だった。諫早家の菩提寺は曹洞宗の天祐寺。現在、多良見町には曹洞宗の寺は無いが、市布や中里町周辺には、由緒不明な中世の寺跡が複数ある。
 ここに曹洞宗の寺があったとすれば、福井で修行したちょっと偉い僧侶が派遣されていて、一野々と呼ばれたこの地を、自分が懐かしむ「市布」に勝手に変えた。などという事が・・。

 多良見町の市布も、山の間の細長い川沿いの土地であり、「市野々」の地形に当てはまる。
 ただ、山の多い長崎には同じような地形がいくらでもあるので、ここだけイチノノだったというのも納得しづらい。

 JR市布駅の上方、道路を挟んだ集落背後の傾斜地に、小字地名の「市布」がある。これが広い範囲の地名になった可能性も考えてみる必要があるだろう。

 ところが困った事に、長崎県の小字地名総覧と、多良見町郷土誌では場所が少し違っている。前者は、山崎鮮魚店から傾斜地を登った浸食地形の集落あたり。後者は、その集落の少し東側の斜面。
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 地名の解釈は、それだけでも大きく変わってしまう。どちらが本来のイチヌノかを、的確に判断しなければならない。
 地元の住民でも元々の範囲を正確に知る人は、まずいないはずだ。

 この小字の「イチヌノ」が地形由来の地名であれば、何か特徴があるはず。

 イチは「険しい」として、ヌノが何を意味するのかが、なかなか判らない。

いろんな辞書で調べても、ヌノは布以外の意味が見つからなかった。
 建築用語の、表面を平らに仕上げる「布基礎」と関係があるようにも思えない。

 ある日、辞書で布巾(ふきん)の「巾」を見ると、布・布きれの意味があり「覆う・かぶせる」という意味があると書いてあった。頭巾や布巾などの原義という事だろう。漢字の巾は、布を表す象形文字らしい。

 山の間や木々に隠れて外部から見えない土地を表現する地名は多い。ズバリ「隠(かくれ)◯◯」とか、「カグラ(神楽)」とか。「別当」もそうだと思う。

 自分はこういうのを「カクレ地名」と呼んでいるが、布(巾)の場合も「覆われて見えない」という意味なのではないかと考えた。
 昔はこういう所に隠し田や畑を作って年貢を免れようとする事もあったそうだ。

 「布」がカクレ地名かどうかを確かめるため、布のつく地名を探して地形を確認した。

・雲仙市瑞穂(みづほ)町 小字 布木(ぬのぎ)
 山からなだらかに伸びる尾根に囲まれて、外部から見えない土地になっている。尾根の上も、道がない時代には何があるか判らなかった所が多い。
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     ※Googleマップより

・諫早市小長井町 小字 布川(ぬのかわ)
 川の両岸がずっと奥まで森に覆われ、周囲からは見えない。
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 山の中の隠れた川を「布川」という所は、全国に見られる。
 
・雲仙市吾妻町 布江名(ぬのえ みょう)
 森に隠れた細長い谷間に、川が流れている。「江」はこの場合、川の事。
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     ※Googleマップより

・長崎市布巻(ぬのまき)町 (旧三和町布巻) 
 現在は県道が通って開けているが、地形的には山に囲まれた低地に川が流れる所。巻(まき)は、川の流れが屈曲している様子と考えられる。
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     ※Googleマップより

・南さつま市 内布(うちぬの)地区
 山に囲まれた川沿いに田んぼが続くので「内野々」だったとも思われるが、ちょっと地形が複雑。内側の隠れた土地でも合っている。
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     ※Googleマップより
 やはり、ヌノは、巾の「覆う」という意味から、隠れた土地を指すと考えてよいのではなかろうか。

 そうだとすれば、小字のイチヌノは、「険しい土地の隠れた所」と説明できる。

 長崎県の小字地名総覧の「市布」は、集落の一部が所々隠れて見えないが、遠くからだと全体はけっこう見えている。 
 多良見町郷土誌の「市布」は、林の奥に民家と農地があり、外側からはまったく見えない。こちらのほうが「イチヌノ」っぽい。昭和23年の航空写真からずっと林があるので、それ以前もあったのだろう。周囲にも外から見えない所があちこちにある。 
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     ※Googleマップより 赤丸が外から見えない所
 しかし、この小字地名が地域全体の地名にまでなる理由がよく説明できない。
  
※市布の地名の由来(最終案)  
 ・市布は元はイチノノで「山の谷間に、川沿いの野原が細長く続く土地」
 ・市布は「険しくて外から見えない所」

 このどちらかに決めんといかんのだが、どうも決め手に欠ける。  
 
 まだ悩ましい事があって、福井県の西市布と東市布は、地形の特徴から元は「イチノノ」だったのだろうと思ったのだが、実はどちらも、外から見えない「隠れた土地」でもある。
 そう考えると、他のイチノノも隠れた土地かなぁと思えてくる。

 ああ、どうしよう、決めきれない!  

 う~ん、今回は引き分けということで。

 だが次は負けねえ!必ずお前をリングに沈めてやるぜ!
(なんじゃそりゃ)

 まあ、布(ヌノ)地名が「カクレ地名」かもという事が判っただけでも収穫はあったので良しとしよう。 

 ※参考文献:古代地名語源辞典 楠原佑介編 長崎県の小字地名総覧 多良見町郷土誌

妙見菩薩と湧水 妙見という地名 

長崎地名的散歩
03 /14 2023
 正月早々花が咲く「元日桜」で有名な長崎の西山神社は、元は西山妙見社と言って、星の神である妙見菩薩(みょうけんぼさつ)を祀る神社だった。
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 長崎の歴史を書いた書物では、江戸時代に誰それが個人で祀っていた神を、長崎奉行の許可を得てこの地に祀る云々と、神社創建の由緒が語られる。
 しかし、「なぜ、あまりメジャーでない星の神なのか」「なぜ、こんな裏山の中腹に祀ったのか」という疑問に対する説明は見たことがない。
 越中先生も、ヒロスケさんも、カエル先生も教えてはくれず、長いことモヤモヤしていた。 (カエル先生は専門が・・)


 あるうららかな春の日、わたしは大村市の弥勒寺(みろくじ)町で、湧き水のある場所を探していた。そして、急傾斜地の途中に湧水の溜池と思しき堤を見つけた。
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 大木の下にはお堂があり、鎮座するのは彩色された神像だった。そばの山口家が個人で祀る「妙見さま」なのだと聞いた。
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 「福重ホームページ」によると、400年前に山口家のご先祖がここへ移住した際、大事に抱えて来たのだそうだ。
 
 神像が「妙見菩薩」と聞いて、わたしはすぐに西山神社を思い出した。
 
 「そうばい、妙見社やった西山神社にも「湧き水」のあった!」
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 椎の木の水と呼ばれるその名水は、何があっても涸れる事なく、江戸時代の後期には、山の反対側の麓にあった長崎奉行所まで、長い上水が引かれていたそうだ。

 これはもしかして「湧き水のある所に、妙見さまが祀られた」という事ではないのか?

 妙見菩薩と水の関係を調べてみると、西日本、特に九州の熊本などでは、湧水源に妙見菩薩が水神として普通に祀られており、あちこちに「妙見様の湧き水」や「妙見様の池」がある事が判った。
 
 妙見神は元々、古代中国の信仰における北極星の神格化であり、仏教に取り入れられて菩薩となり、日本に伝わった。菩薩像は、北の守護神である玄武に乗った姿で描かれる。玄武は亀と蛇が絡み合った姿の霊獣で、水を象徴する。
 
 日本において、妙見菩薩は古くは吉祥天と同一視され、吉祥天は水の神である弁財天と同一視された。なので、妙見菩薩が水の神とされても不思議ではない。

 弥勒寺町の山口家にある妙見菩薩像の外観は、「童子タイプ」の吉祥天像とよく似ている。
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 ※現在、お堂は新しく建て替えられ、大きな木は短く切られている。

 西山神社の湧き水が「涸れることがない」のなら、それは神社創建の前からあったはず。つまり「湧き水のある所に妙見社が建てられた」という事になる。

 ここには妙見菩薩の使者である白蛇と龍の絵があるそうだが、これらも水の象徴として奉納されたものかもしれない。

 西山妙見社には、奉行所の貴重な湧き水を守る役割が少なからずあったと、自分は考えている。

 真偽の程は定かではないが、とりあえずスッキリした。山口家のご先祖さまのおかげだ。


 ◎「妙見」という地名

 妙見という小地域の小字地名はあちこちにあり、長崎県内にも多い。妙見菩薩を祀ったことによる地名なのだろうが、上記のことから、地名の「妙見」と水との関係について確認を行った。

・大村市溝陸町 妙見
 田んぼの一番奥の崖の下から水が湧き出している。大村郷村記によると、付近に妙見菩薩が祀られていたらしい。 
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・諫早市天満町 妙見 妙見田
 尾根の先端部の畑と棚田付近。川は無いのに棚田がある。丘の上と近くの崖下に取水設備があり、地下水が豊富だった事が判る。
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・千々石町小倉名 妙見
 雲仙岳の麓、棚田が広がる傾斜地の上の段に、妙見神社がある。DSCF4659A.jpg

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 神社の下の水路に千々石川から灌漑用水が引かれているが、神社周辺に湧水は無い。水の通り道に妙見神を水の神として祀った可能性はありそう。でも、別の理由で勧請されたのかもしれない。

・諫早市森山町上井牟田名 妙見
 井牟田盆地そばの山の上。森山町郷土史によると、妙見菩薩が祀られていたとの事。
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 現在はチサンカントリーのゴルフ場になっている。橘コース5番ホールの、コースとは関係ない池の辺りが小字の「妙見」で、湧水源だったと思われる。
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   ※googleマップ3D地図より
 池から溢れた水は、勢いを弱める加工をした大きな水路を通って、麓の農地の方へ流れるようになっている。山に降った雨の多くがこの周辺を通るので、大雨の時はかなりの水量だっただろう。
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・長与町高田(こうだ) 妙見
 高田小学校の崖の下。川の側は以前から湿地らしい。水が涸れないので開発ができないパターンなのだろうと思う。
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・南島原市南串山町 妙見
 山の上の森に水源があり、斜面の田畑を潤している。現在はポンプ設備で汲み上げている。丘へ登る坂道の途中の、小字「妙見」には妙見神社がある。
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  ※長崎県の小字地名総覧より
 やはり「妙見」は、ほとんどが水との関係を感じられる所だった。


 大きな川が無い土地の農民は、湧水が出続けることで田畑をつくり生活ができるのであって、それがどれほど大切かは考えるまでもない。

 農業用水はもちろん、水は人が生きるために必要なもの。
 湧水は、急に止まったり濁ったりすることもある。昔の人は、きれいな水が出続けることを願って、妙見菩薩やその他の水の神を祀ってきた。

 家でいつでも好きなだけ水が使える現代人は、水がある事に感謝したりはしない。台風や大雪で断水し、復旧した時に、ああよかったと思うだけ。

 暮らしが便利になるのはよい事だが、必要がなくなったものは忘れられてゆく。
 それは、神様であっても同じなのだろう。

地名散歩 釜蓋(かまぶた)

長崎地名的散歩
03 /10 2023

 雲仙市千々石町の海岸にそびえる、釜岳(かまだけ)。

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 真ん中のえぐれたような斜面の麓に「釜」集落がある。


 諫早市飯盛町 下釜(しもがま)

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 千々石湾に面した飯盛町は農業主体の町だが、古くは江の浦と言って、漁民も多かった。



「カマ」のつく地名は、小字地名を含めると全国に数多く存在する。


 地名用語のカマは「咬む」で、浸蝕された地形と言われている。釜底や竈門(かまど)のように、丸く彫り込まれた形の海岸によく見られる。


 地名では大抵「釜」の字になっているが、それは解りやすい字を当てただけで、本当は釜も竈門も関係ないのかもしれない。大事なのはカマという言葉。



 釜のつく地名に「釜蓋(カマブタ)」と言うのがある。


 釜と比べるとマイナーだが、小地域の地名は長崎県内にも結構見られる。


「カマブタ」と言えば普通、ブ厚い一枚板にゲタの歯状の取手が2本ある「羽釜のフタ」を想像するだろう。なので、「カマブタのような地形」と言われてもちょっとイメージできない。そんな形の自然地形など滅多にないはずだ。

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 ただ、カマブタという地名は海岸にも山の中にも存在するので、やはり地形地名である可能性が高いと思った。


 諫早市貝津町、長崎自動車道の諫早インター料金所付近にも、小字の「釜蓋」「下釜蓋」という地名がある。


 近所なので、通る時には眺めてみるが、釜蓋を思わせるような地形は見当たらない。


 何をもって「カマブタ」と言ったのだろうか。



 いろいろ調べてみると、江戸時代以前に使われていた釜の蓋は、薄くてゲタの歯一本のシンプルなものだった事が判った。米を炊く時は、重しの石を乗せていたらしい。


 また、長崎の島原半島や諫早市(旧北高来郡)では、蒸しものをする際の釜の蓋は、竹や草で編んだ椎茸のカサのような形である事を知った。

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 それなら自然地形でも充分有り得る。丸い台地の周囲を石垣で固めなければ、自然にフチが削れてそういう形になるだろう。


 単に「丸くて上が平坦な土地」でもいいのかもしれない。


 古来、島原半島や佐賀県では、結婚式で新婦の頭に蒸し釜の蓋をかざして口上を述べる「釜蓋かぶせ」の儀式が行われてきた。現在も一部では続けられているそうだ。

 結婚式で3つの玉袋がどうのというスピーチは聞いたことがあるが、これは実際に見たことはない。


 ということで、長崎周辺の釜蓋地名の土地が、この「肥前釜蓋」のような丸い台地状の地形かどうかを確認するため、あっちゃこっちゃを、うろんころん見てさるいた。



 諫早市貝津町の釜蓋・下釜蓋は、周囲の地形の起伏が激しい上に、宅地開発も進んでいて特定が難しい。しかし、昭和23年の航空写真を見ると、それらしい地形が写っていた。

 釜蓋と思われる所は、角ばってはいるが、高く突き出して上が平坦に見える。下釜蓋らしき所は、現在は住宅の造成などでだいぶ削られている。

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 「釜蓋」と思われるところ。詳しく調べる前に集合住宅が建ってしまった。

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 雲仙市千々石町の、釜蓋城があった橘神社奥の高台も、やはりそういう地形と言えそうだ。

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  ※googleマップ 3D地図より

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 雲仙市国見町は、淡島神社の近く。「釜蓋」は尾根の先端辺りにアパートが建つ高く丸い部分のことか。「東釜蓋」はそこから少し奥に入ったところ。はっきりココと特定できないが、流曲する川岸が高くなっている所が複数ある。

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 熊本県天草市天草町大江の海岸にある「釜蓋」は、航空写真を見ると岩礁の一部が円柱状になっているようだ。国土地理院の地図で標高を確認すると、丸い部分は周囲より1〜2m高い。現地に行って確認したいが、道がない断崖の下なのでちょっと無理そう。

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 対馬市峰町の海上に浮かぶ「釜蓋瀬」は、船が座礁しないよう警告するための灯標が立つ、丸い岩礁。海上保安庁の写真を見ると、椎茸の傘のような形。

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  ※海上保安庁HPより https://www.kaiho.mlit.go.jp/


 新上五島町桐古里郷の「釜蓋」は、海岸近くの岩礁。真ん中に丸いテーブル状の突起があるが、岩礁自体の形を言ったのかもしれない。

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  ※Googleストリートビューより


 南島原市南有馬町の「釜蓋」は、河口近くの低地。ほぼ平坦地で、高くなった地形は見られない。開発で崩されたのか。ただ、川の流曲部の内外はカマブタとカマの関係であり、内側の土地は円柱状になっている。

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 同じく、南有馬町の「先釜蓋(さきかまぶた)」は、「サキ」が謎だったが、原城跡の台地から伸びる尾根の先が丸くなった所を、そう呼んだのではないか。

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 土のままなので、フチが削れている。



 雲仙市吾妻町木場名の「釜蓋」は、「川のそばの田んぼの所」と地元の人に聞いたが、明確な釜蓋地形は見えない。しかしその周辺には、川の流曲部が丸く立体的になっているところが複数ある。長い年月のうちに浸食されて消えたか、農地整備で崩された可能性もあるだろう。

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 佐世保市野中町の「釜蓋」は、航空写真などで見ると、MR野中駅背後の斜面に、丸い棚状の地形が見えるがはっきりしない。ガソリンが安くなったら行ってみよう。

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 半分はGoogleマップ&ストリートビューと、国土地理院地図で見ただけなのだが、カマブタという地名は、やはり円柱状に高くなった所や、川の流曲部の内側が丸くなった所を指しているようだった。



 さらに、長崎以外の釜蓋も見てみた。


 佐賀県神埼市脊振町の「釜蓋川」は、川がコンパクトに流曲している所が何カ所もある。

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 福岡県大野城市の「釜蓋」は、釜蓋地禄神社のある土地が、明らかに円柱状になっている。

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  ※Googleマップ3D地図より


 九州から遠く離れた長野県安曇野市の「釜蓋」も、川の流曲部の内側。九州に集中するカマブタ地名だが、カマブタと言えば、全国的に円柱形をイメージしたらしい。

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  ※Googleマップ3D地図より


 そういう訳で、今回は「カマブタ」という地名の土地を見てきた。


 ちなみに、沖縄で蒸し芋に使う釜蓋は、植物を円すい形の笠のように編んだもので、方言で「カマンタ」と言う。

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 そして、それに似ている魚のエイも、カマンタと呼んでいる。


 「おまんた」と似ているが、無論、関係はない。


 鹿児島の南側、頴娃(えい)町に、有名な人気観光パワースポットの釜蓋神社がある。(正式名は、射楯兵主神社:いたてつわものぬしじんじゃ )

 頭に釜蓋を乗せて落とさないように歩き、うまくいったら願いが叶うという事で、若い人たちに人気らしい。

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   ※南九州市HP 鹿児島県観光サイト 鹿児島の旅より  


  自分は貧乏人間なので、ここに行ったことはないのだが、Googleの旦那様のお力をお借りして写真を見ると、神社は、開聞岳が美しい円すい形に見える海岸に鎮座している。



 ここはもしかしたら、民俗学者の谷川健一先生が言っておられた「エイを祖先神とする海人(あま)の一族」が、南九州一円の聖地として、エイ神に見立てた開聞岳を遥拝した聖地だったのではなかろうか・・


 そんな空想をしながら、さつま白波をひとり舐める夜だった。


地名散歩 船石町「二双舟」

長崎地名的散歩
03 /06 2023

 長崎市船石(ふないし)町は、山の谷間を流れる川沿いに、田んぼが広がる所。ふなっしーと似ているが、特に関係はない。

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 「船石」の由来は、町の南側の船石岳の山中に、舟の形をした大きな石があることからと聞く。


 町の北部には、山の中なのに二双舟(にそうぶね)という集落がある。なかなか珍しい地名だが、どういう由来なのだろう。

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 集落内には「ニ双舟」という小字がある。ここにヒントがあるかもしれない。場所は、ニ双舟公民館から北側へ登った丘の頂上のダム付近。そこから先は中里町になる。  

 (場所は長崎県の小字地名総覧を前提にしているが、ずれている事もあるようなので注意が必要。少し南側の、地主さんの家辺りという人もいた。)


 ここにある大きな砂防ダムは、昭和50年の航空写真には無いので、長崎大水害のあとに作られたのだろう。

 大水害では、船石町は多くの田畑や石橋なども流されたそうだ。


 船形の石が2つ並んでいるのかと思ったが、航空写真にはそれらしいものは写っていないし、伝承なども見つからない。

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   Googleマップ航空写真より

 ダムの周囲の地形は以前と変わっているし、なぜここが「ニ双舟」なのか、まるで判らない。


 いろいろな可能性を探り、フネは水に浮かぶ舟では無く、水を溜めるフネ、つまり「水槽」の事ではないかと考えた。


 この場所は丘の頂上の背後であり、山の湧水を船石町側と中里町側の田畑に分けていたところではなかったか。

 背後の山には「滝樽(たきたる)」という小字地名があり、明らかに水源があることが判る。

 湧水量が少ない場合も、一旦水槽に溜めておけば、必要な時に使うことができる。


 そしてここには、集落の上水道用タンク設備もある。地下水があるからだ。



 昔、湧水の出や量が不安定な所では、隣村と農業用水を取り合う「水争い」が起こった。平等に水を分ける水槽がひとつずつあればそういう懸念は減る。


 つまり、二双舟には、水槽か溜池のようなものが、ふたつあったのではないか。

 浴槽の事を湯舟と言う。それなら、水槽は水舟と言うのかと思って調べたら、岐阜県の郡上八幡では、現在も生活の一部として水舟という木製の水槽が使われていることがわかった。


 昔は全国的に、大きな丸太を半分に切って中をくり抜いた「槽(ふね)」を、水タンクとして使っていたとも聞く。


 昔、ここにそういうものがあったとしても、現在も残っているはずはない。だが、地形状況から手掛かりを得ることはできるかも知れない。


早速、現地確認に向かった。


 イノシシ除けの電流柵をまたいで山の方へ入る。電線が股間に当たったら大変なので、慎重に越えて、坂を登った。


 そうそう、昔、こんな感じで、水槽がふたつ・・

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 ええ?うッそォ〜!


 いやまさか、本当にあるとは!

 高さは2mくらいで、中にはきれいな水がたっぷり入っている。


 あきらかに、ふたつ並んだ水タンク。これは一体、何の冗談?

 

 ポンプで地下水を汲み上げてここに溜めているらしい。農業用水だろうか?いや、そんなコストを掛けていては、儲けなど無さそうだが。

 その少し上には、レンタルの給水タンク付きトラックが停められていた。いろいろ金が掛かっている。


 水が出なくなったのだろうか?


 沢に下りてみると、水神さまの石祠が祀られており、水は樹脂のパイプからけっこう流れ出ていた。


 奥のほうには、石囲いの溜池。ここは涸れていて、奥が崩れて半分埋まっている。土砂崩れのような感じだった。

 ここにも水神さまが祀られている。池から細い水路が出て、突き出した尾根の先端をぐるりと回って、中里町の方へ続いていた。

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 池は涸れていたが、別の所からパイプで水が引かれ、水路を流れていた。

 この池は中里町用の「フネ」だったのだろうか?


 やはり、ここは水源であり、古くから水を分けた所だったと思う。

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 農作業を終えた年配の人を追いかけ、謎のタンクのことを訊いた。


 当時行われていた西九州新幹線のトンネル工事で農業用の湧水が止まり、工事関係者が補償のため、あちこちボウリングして水を溜めているのとの事だった。

 

 そういうことか!合点、納得、把握、理解!


 確かに、船石町内の少し離れたところを新幹線が通る計画だった。大村の武留路町大岩三社大明神とは逆で、工事で水が止まっていたとは。

 そのあとニュースにもなったが、工事によって水が出なくなった所はけっこう多かったらしい。


 そう言えば以前、昼間に長崎と諫早で大砲のようなドォーンという音が響いてニュースになった事があった。自分も仕事中に聞き「ペルリの黒船が来た」と言って失笑を買ったが、その時はこの辺りのトンネル工事の現場も疑われていたようだ。



 昔、二双舟の辺りが、不安定な水源だったとしたら、木や石囲いの二槽のフネがあったのかもしれない。

 ただ、同じ意味の地名は見ないので、今ひとつ承知できずにいた。


そして・・

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 最近気づいたのだが、昭和37年の二双舟の航空写真を見ると、今よりも山は切り開かれて田畑が多く、ふたつの細長い小山の地形がハッキリ見える。

 そして、ふたつの小山の間は、くびれた形でつながっている。

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 もしかしたら、単純にこの地形が「二双舟」だったのかもしれない。


 

 現在、ここは「恒久渇水対策工事」として、三ヵ所に巨大な水槽とポンプ設備が建設されている。

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 まさかまさかで、ここに常設の水を溜める「フネ」が作られるという、冗談のような話になっていた。

 

 水槽は三つなので、「三双舟」ですがね。 



いなちゃり サブハンドル最新版

いなちゃり
03 /04 2023

 自転車散歩も、パロマが流行してからは滅多に行く事がなくなった。(パロマねぇ~)

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 最近は買い物ひとつにしても別の移動手段を使っており、以前に比べると出撃回数は大幅に減っている。だが、自転車に乗るのをやめてしまった訳じゃあない。

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 1月に長崎に雪が積もって、諫早でクルマ200台が放置されるという、激烈にみっともないニュースが全国に流れた日も、自転車で会社へ行った。(2年振りにね)

 新雪で、凍りついてなければ自転車でもそうそう滑りはしない。無理してチェーン無しのクルマで行ってたら、200台のうちの1台に数えられていたかも知れない。


 いなかの散歩に最適な自転車「いなちゃり」についても、細々と検討と実験を繰り返している。中でも、自分が以前からこだわっているのが、サブハンドル。


 ハンドルに、補助的なサブハンドルを追加する事で、長い距離をどんだけ楽チンに走れるかを追求してきたのだが、最近やっと、そこそこ納得のいくものが出来た気がする。


  「いなちゃり!快適なハンドル」記事を見る

 以前、サブハンドルの記事を書いてから、もう二年の月日が流れてしまった。祖国には誰も私の事を知る人はいないだろう。  

 だが、かつてのモホホリア大陸の覇者、誇り高きポポニペ・パピヨンペ族の末裔が、この懐かしきセント・ジゴンスダス島に命の炎を燃やした証として、続きをここに記す事としよう。

(あぁ~、どうでもいい~)

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 前回は、エンドバー付エルゴグリップ仕様のハンドルにサブハンドルを追加すれば、最強の「楽々スイスイ自転車」が完成するのではないか?というところまでだった。


 これは以前、アラヤのツーリング車フェデラルにつけていた、自作のサブハンドル。Uの字に切ったカマキリハンドルの根元にバーエンドバーを取り付けたもの。

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 エンドバーを横向きに握り、カーブの部分に手のひらを乗せることで、長距離走行時の手の痺れや痛みを緩和できる。


 また、サブハンドルに持ち替えることで、走行中に上体が起きてリラックスした姿勢になり、首や腰の負担を軽減すると共に、周りがよく見えるようになる。


 長らく物置に封印していたが、これをまた使うときが来たようだ。

 

 まずは、先端の使わない部分を切り落としてコンパクトにした。重量も少し減るし、カゴの荷物のジャマにもならなくなる。

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 これで調整しながらしばらく走ってみた。やはり、ゆっくり流す際に上体が起きることで「走りながら休める」ため、なかなか快適だった。

 しかし、走っていると物足りなくなってきた。もっと上体を起こしたい。


 ドロップハンドルの前傾姿勢からサブハンドルに持ち替えると、大きく上体の角度が起きるが、フラットバーからだと、それほどでもない。

 サブハンドルがもう少し高い位置ならいいのだが、ベースがカマキリハンドルだと、高低差は、支えるブラケットの取付ピッチ最大50mmと、上に起こした角度の分だけ

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 それと、今回なぜか無意識に、サブハンドル両端のカドの部分を、クルマのハンドルを持つように10時10分の位置で握ろうとしている。カドなので握りやすくはないのだが。


 バーの先端を切ったので、そういう持ち方が出来るようになり、その方が自然に持てると脳味噌が判断したのだろう。確かにスピードを出しても安心感がある。


 そうか、そうだったのか、オレ。気づかずにごめん、オレ。(お前は誰なんだ)


 これらの結果を踏まえ、バージョンアップを進めた。 



 そしてこれが、最新のサブハンドルじゃあぁあ!!

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 今回は、ハンドル自体に高低差があるライザーバーを使った。20mm以上高くなる。

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 これにエンドバーを、上から見て10時10分に近い角度になるよう取り付ける。ライザーバーを普通の向きにすると、エンドバーがまっすぐになってしまうので、前後を逆にして使う。握る部分も体に近くなるため、さらに上体が起きる。

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 そして、最も自然な持ち方になるよう、試走しながらエンドバーの位置と上下の傾き角度を調整し、ライザーバーを切り詰めた。


 エンドバーは少し上向きにすることで安定感が増す。また、手前に引きつけやすい角度にする事で、ペダリングに補助パワーを加えられる。

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 バーテープは全体に巻き、ライザーバーの部分にも手のひらを置けるようにした。手の痺れと痛み対策だ。

 緊急の際、瞬時に持ち替えてブレーキをかけられる事も考慮した。 


 コンパクトになった分、さらに重量も減った。


 それほどカッチョ悪くもないだろう。

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 走ってみると、快適な上に安定していて、上り坂でもグングン踏み込める。ブレーキレバーをつければ、これだけでも良さそうなくらいだ。


 ただ、力が掛けられるという事は、ブラケットにも負荷が掛かるはずなので、強度に注意する必要がある。変な音や感触があったら、即、点検だ。

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 とにもかくにも、走らんと意味がないので、次の週末は出かけようと毎週のように思うのだが、あれやこれやしている内に時間がなくなり、遠出どころか、調べものも買いものも、原チャリで行く事になってしまっている。

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 よし、きょうこそゼッタイ出かけよう!

Ramblingbird

長崎南部の自転車散歩やどうでもいい出来事を、小学生ギャグを交えて書き散らします。お下劣な表現を含みますのでご注意下さい。